苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

信仰の三段論法



 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して言った、「主よ。私のしもべが中風病みで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたに私の屋根の下まで来ていただく資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、その一人に、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
エスはこれを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」マタイ福音書8章5〜10節

 多くの人々がイエス様にお会いしたが、イエス様を驚かせるほどの信仰を見せた人は、福音書のなかに二人しかいない。その一人が、このローマの百人隊長だった。
 百人隊長の信仰は単純明快・論理的信仰である。私は彼の信仰を三段論法的信仰と呼びたい。三段論法とは、
大前提:「すべて人は死ぬ。」
小前提:「ところで、ソクラテスは人である。」
結論: 「したがって、ソクラテスは死ぬ。」
という論法である。もう一例。「すべて犬はワンとほえる。」「ところでポチは犬である。」「したがってポチはワンとほえる。」
 百人隊長の信仰の内容は、
大前提:「すべて権威の下にある者は、権威のことばに従う。」
小前提:「ところで、しもべの病気は、万有の主であるイエス様の主権の下にある。」
結論: 「したがって、しもべの病気は主イエスが『去れ』と言えば、立ち去る。」
 ということであった。いかにも軍人らしい信仰ではないか。あるいは、理系的信仰と言ってもよい。科学者には神を信じる人々が、存外、多い。米国の自然科学者たちのアンケートによれば、その八割が創造主なる神の存在を信じると答えている。彼らの論理は明快である。「すべて秩序あるものには、設計者がいる。ところで、この宇宙・自然・人体には秩序がある。したがって、この宇宙・自然・人体には設計者が存在する」ということである。
 聖書的な信仰とは、不合理な迷信の世界に身を投じることではない。むしろ、屁理屈を捨てて、造られた者として創造主に感謝し、その摂理にしたがう、人として生きるべきまっとうな道に進むことにほかならない。

「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの屁理屈を捜し求めたのだ。」伝道者7章29節(試訳)

(「通信小海」85号 2000年11月に加筆)