苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

男は男らしく、 女は女らしく

「女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者をあなたの神、主は忌み嫌われる。」申命記二十二:五

 娘が小学生のころ、小学校の体操服の色が変わった。以前は男子は青色、女子はえんじ色だったのが、男女共通の紫になった。ちょうどその頃、男女混合名簿が導入された。これは公立の小中高等学校を中心に、性差を意識させるような男女区別を、子どもの視野からいっさい排除しようというジェンダーフリ―教育の一環としてなされていることである。かつて運動会では勇ましい騎馬戦や棒倒しは男子だけの競技であり、女子は優雅に県歌「信濃の国」の踊りをしていたものだが、今では全員騎馬戦である。
 たしかに、男尊女卑の風潮や男女差別にあたる不合理な制度は改める必要がある。しかし、人を男と女とに区別して創造されたのは神なのである。事実、今や肉体のみならず、脳の仕組みも男女は区別されて造られていることが科学者によって明らかにされている。男女の区別をいっさい無くそうとすることは、非科学的であり、創造のわざを拒むことである。いずれその傲慢に対する罰をこうむることになる。
 深層心理学林道義氏は言う。〈子どもは三歳くらいから始まって思春期までに、自分は男であるとか女であるとかいうアイデンティティを身につけていく。ところが男子を男らしく、女子を女らしく育てないと、価値観において自信が持てず、無気力や閉じこもりの原因となり、さらに異性との関係が作れず、結婚もできず、同性愛に傾く。結果、いよいよ少子化が進むであろう。その影響は特に男子に強い。中性化・去勢された男は、頼もしさ、力強さという魅力に欠ける。女性にアッシー君などと呼ばれて軽蔑されつつ利用されるだけである。他方、女らしさ、しとやかさを失い、言動が男性化してがさつになり、男性から見ると女性としての神秘性や魅力はなく、単なる性欲の対象としか映らなくなる。 結局、男が男らしさ、女が女らしさを失うと、お互いに尊敬し憧れをいだくことがない分、男女の距離感はなくなるが、単に性欲のはけ口として利用しあうだけになる。男女無区別教育、ジェンダーフリ―教育の及ぼす影響は、すでに現代の世相に現れている。〉
 フリーとは自由である。自由というのは、その者が本来もっている個性にふさわしく生きることが許されるときにこそ得られる。ジェンダーフリーと称して、男と女の個性を中性という檻に監禁することのどこが自由なのだろうか。数年後には青少年の心の病気が激増するだろうと先の心理学者は予測している。私たちは創造主の前に謙虚になって、男子は男らしく、女子は女らしく育てたいものである。

「こうして神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記一:二十七

(通信小海117号2003年7月)

追記>この記事が書かれて9年。林道義氏の予測のとおりになっているように感じるのは筆者だけだろうか。