苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

心貧しく、悲しむ者


マタイ5:1−4
2012年9月16日 小海主日礼拝

序 「山に登り」
マタイ福音書5章から7章は、山上の垂訓、また、山上の説教と呼ばれます。イエス様がいらした時代にも、ガリラヤ地方には罪と病とさまざまな問題のなかで苦しみ悲しんでいる人々がたくさんいました。イエス様は、福音を語り、みことばを教え、そして、肉体の癒し、悪霊の追い出しといったわざを行われました。ですが、ある日、こうした伝道と奉仕の働きの合間に特に弟子として選んだ人たちを連れて山に登られました。

「5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」

 ずっと群集の中にいて忙しくしているだけでは、弟子たちも疲れて、神のみこころが何であるのかを見失ってしまいます。そこで、イエス様は山に退かせて神のみことばの饗宴に招かれたのでした。 群集を離れて山に登って主イエスが弟子たちを教えたというのは、今で言えば、6日間のこの世での生活を離れて時を聖別して、みなさんが教会に集ってきて、ともに主のみことばに耳を傾けるということと似ています。あるいは、都会の人たちが、時折、喧騒を離れて松原湖バイブルキャンプに神様のことばを聞きに来られるということとも似ています。このように、神様の前に静まって御声に聞くときを確保することはクリスチャンにとって生命線です。

 また、イエス様が山に登って新しい時代の生き方を弟子たちに教えられたことには、救いの歴史を見渡すと理由のあることでした。それは、かつて旧約時代1500年前にモーセがあのシナイの荒野のホレブ山で、神から十戒を初めとする神の民の生き方の基準となる律法を授かって民に与えたように、今、新しい約束の時代、新約時代にふさわしく、イエス様は弟子たちに天国の民としての生き方をお教えになろうとしていたのです。山の雰囲気もずいぶん違っていて、ホレブ山は草一本生えていない岩山ですが、イエス様の山は緑滴るガリラヤの穏やかな丘のような山の風情です。イエス様は、山上の説教の中には何度も、「『・・・してはならない。』とあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」とおっしゃっています。「モーセが教えた律法では、かくかくしかじかを教えられただろうが、わたしはこのように教えるのだ」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、イエス様は神のことばである旧約の律法にも勝る権威をご自分は持っていらっしゃるということです。旧約時代も恵みであったが、今、さらに恵みに恵みが注がれる時代が訪れたから、これからこのように教えようとおっしゃっているのです。
 さて、山に登るとイエス様は「おすわりになった」とあります。当時、教える立場の人々は大事なことは座って教えました。生徒たちは立って聞きました。古代教会でもそうで、司祭は椅子にすわって教え、会衆は立って聞きました。現代とは逆です。イエス様は弟子たちに「いっしょに山に登ろう」と誘い、弟子たちはハイキングだと思ったかもしれませんが、山に着くと、イエス様が岩に腰掛けて弟子たちを呼んだので、「これから大事なお話をなさるのだな・・」と弟子たちは緊張した面持ちでイエス様の下に集ったのです。実際、そのとおりで、1500年前に主なる神がホレブの山でモーセに与えた律法に匹敵する、いや、あの律法に勝る教えをイエス様はこれから語ろうとなさっているのです。

1.「ああ、幸いだ」・・・祝福から始まる

「山上の説教」の特徴は、「・・・は、幸いです。」という祝福から始まることにあります。しかも、その祝福は8度も繰り返されますので、八福の教えなどと呼ばれます。

「心の貧しい者は幸いです。
悲しむ者は幸いです。
柔和な者は幸いです。
義に飢え渇く者は幸いです。
あわれみ深い者は幸いです。
心のきよい者は幸いです。
平和をつくる者は幸いです。
義のために迫害されている者は幸いです。」

 「ああしなければならない」「このようにしなければのろわれる」という呪い、警告からではなく、祝福からこの山上の説教は始まります。「あなたがたは、なんと幸いなことだろう!」「あなたがたは、なんと神に愛され、神に祝福されていることでしょう!ということなのです。
 山上の祝福には、弟子たちに対するいろいろと教えがあり、知恵があり、警告もあります。けれども、その前に知るべき大事なこと、また、常に意識しておくべきことは、キリストの弟子たちに対する8つの祝福です。山上の説教の基調としてずっと底に流れているのは、神はあなたを祝福しているという事実です。 言い換えれば、「まず、神から恵みが先行していて、それに応答して私たちの信仰生活がある」のだということです。これから学ぼうとする、「心の貧しい者の幸い」「悲しむ者の幸い」は、まさにこの神の恵みを表わしています。

2.天の御国の民として

 8つの祝福のうち、第一番目と第八番目を見てみましょう。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」

共通していることがあります。「天の御国はその人たちのものだから」という「幸い」の理由です。イエス様は、この山の上で天の御国の民の生き方を教えていらっしゃるのです。神様を知らない人々を相手にしているのではなく、天国に国籍のある人たちを対象としてこれから教えようとなさっているのです。「私たちの国籍は天にあります」と告白することのできるクリスチャンへの教えです。
クリスチャンは、天国の国民です。なぜクリスチャンはイエス様を信じたことによって、すでに天に国籍を持つ者となっているのに、なおこの世に生きているのでしょうか。私たち自身の救い、快適さということだけ考えるならば、この浮世にいるよりも、世を去って主のみもとに行くほうがよほど幸いです。主の御許に行けば、私たちは罪を完全に洗いきよめられてもはや自分の罪に悩む必要もないし、さまざまな苦しみも嘆きも涙もありません。あるとしたら、感動の涙だけです。それなのになぜ私たちは、この世にいなければならないのでしょうか?
それは、イエス様は、天の栄光の御座を置いて、私たちのためにわざわざこの世に来てくださったように、私たちも天国に国籍はありますが、この世界の人々のために、遣わされてきているのです。この世界もまた神の造られた世界であり、この世界にもまた御心がなることを神様は望んでいらっしゃるのです。悲しみ尽きない世界に神様から慰めをもたらし、闇の中に光をもたらすためです。
私たちは天に国籍を持つ者として、この世にあって天国人としての生き方をします。そうすることによって、天国の素晴らしさを、清さを、慰めを、希望を、この世界にもたらすためなのです。神の国(支配)が、この世界にも前進するためなのです。そのガイドラインが、山上の説教なのです。

3.「心の貧しい者は」「悲しむ者は」
 
 さて、山上の八つの祝福の最初の二つを改めて読みましょう。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4「 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」

「心の豊かな者は幸いです」というのが普通のことばでしょう。「喜んでいる者は幸いです」というのが普通です。「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。」というのは、なんだかへそ曲がりに聞こえます。イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか。
 ときどき、「心の貧しい者」というのは「謙遜な人」という意味であると説明されることがありますが、これはちょっとちがいます。謙遜な人については、少しあとの「柔和な者は幸いです」で教えられています。「あの人は謙遜な人だなあ」と私たちがいうときには、たぶん「あの人は教養も社会的地位も名誉も富もある人なのに、ぜんぜんいばったところがなくて立派な人だなあ。実るほど頭をたれる稲穂かな、はあの人のことだね。」という風な意味で使うでしょう。けれども、「心の貧しい者」というのは、そういう人のことではありません。イエス様の目の前にいる弟子たちのことを思い浮かべて見ましょう。ガリラヤの漁師、単純なシモン、ぼんやりしたアンデレ、ちょっときざなヨハネ、瞬間湯沸かし器ヤコブ・・・彼らには社会的地位も名誉も富も別にあったわけではありません。「心の貧しい人」というのは、日本で言う謙遜な人という意味ではどうもないようです。
 では、「心の貧しい人」とはどんな人のことでしょう。直訳すれば「霊において貧しい人々」「心の乞食」です。教養があるとか、地位があるとか、富があるとか、なんだかそういうものがあるわけではなくて、本当にない人です。「実るほど・・・」というような実はない人です。ふつうに考えたら、「幸いだ」なんて思えない人です。でも、イエス様はそういう人たちが「幸いです」とおっしゃいました。それは、その何もない人たちに神の愛と祝福が天から注がれているからなのです。
エス様のおっしゃることを理解するには、ルカ伝のイエス様のお話を思い出すのが一番でしょう。

「18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:9−14

 この取税人こそ、イエス様がおっしゃる心の貧しい、悲しむ人です。彼は教養があり品行方正でありながら、へりくだっている謙遜な人ではありません。彼は神の宮に来たとき、自分の一週間の歩みを振り返ると神様の前に顔を上げることができずに、胸を打ちたたいて、「ああつくづく俺は罪深いなあ」と感じて悲しくてならなかったのです。
「月曜日は、あの貧しいやもめからもカネをふんだくり、火曜日は貧乏な年寄りからも税金だといって取り立ててきて、『人でなし!売国奴!』と背中に罵る声を聞いて帰ってきたなあ。水曜日は、貧乏な大衆食堂の夫婦から無理に・・・実際、おれは自分の生活のために、ローマ帝国に媚を売るおれは人でなしで売国奴だものなあ。」そう振り返ると、彼は情けなくて仕方なかったのです。
彼は人の前では虎の威を借る狐そのもので、虚勢を張っていたのかもしれません。そうでなければ、取税人は勤まらなかったでしょう。けれども、聖なる神様の前で自らを振り返れば、まさに「地獄は一定住み家ぞかし」です。取税人は「ああ、神様、こんな罪人をあわれんでください!」と泣きながら祈るほかないのでした。しかし、そういう彼をイエス様は「ああ、君は幸いだなあ!天の御国は君のものだよ。」と慰めてくださるのです。

 「心の貧しい者、悲しむ者」とは、ほんとうに神様の前で、「ああ、私はだめだ。私は自分で自分の罪をどうすることもできない。主よ、こんな罪深い私をあわれんでください。」と認めたなのです。
 病気であっても自分は健康だと思いこんでいる人は医者にかかろうとはしません。同じように自分は正しいと思っている人は神様の恵みの必要も赦される必要を感じません。しかし、自分の罪を悟り、自分の罪に苦しみもだえる人は、イエス様にあらわされた神様の恵みにすがりつきます。そういう人に、神様は一方的な恵みをもって、救いを与えてくださいます。すなわち、御子イエスは世の罪を背負って十字架で贖いのわざを成し遂げられました。御子イエスを救い主として受け入れる人は、「天の御国はあなたのものだよ」と慰めていただくことができます。
 あなたは、自分の罪に苦しみもだえているでしょうか。嘆いているでしょうか。そうであれば、主イエスはあなたにおっしゃいます。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国は君のものだ。
悲しむ者は幸いです。わたしがあなたを慰めよう。」