苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの宣教

マタイ4:12−25
2012年9月9日 小海主日礼拝

1.異邦人のガリラヤへ

4:12 ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。

 バプテスマのヨハネは人の顔色を恐れず、まっすぐに神からの悔い改めのメッセージを語る預言者でした。彼の舌鋒は、領主ヘロデ・アンテパスに向けられました。あのヘロデ大王の息子です。当時、ヘロデは、ヘロデヤという后を連れていましたが、この女は母の違う兄から奪い取ったものでした。つまり、アンテパスは姦淫の罪を犯しつつ、この地で領主をしているわけです。ヨハネはヘロデを公然と非難しました。「それは不法なことです。悔い改めなさい。国民の模範であるべき領主という身分でありながら、とんでもない罪を犯したものです。」と。アンテパスは実のところ「痛いところをついてくるなあ。」と思って、ヨハネの勇気に感心してもいたようです。しかし、妃のヘロデヤは都ローマからこんな東の果てに来て恥をかかされたと怒り狂い、アンテパスに「ヨハネを黙らせてください。」と迫るので、アンテパスはヨハネを逮捕させたのです。
 ヨハネ逮捕という知らせを聞いて、イエス様はガリラヤのナザレに退きました。まだイエス様がエルサレムで公然と宣教をするときではなかったのです。このような事情でしたが、実はこれもまた、神様のご計画のなかにあったことなのであるとイザヤ書を引用しつつマタイは述べています。

4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、
ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
  死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

 「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているのには歴史的背景があります。ソロモン王が死んだ後、紀元前932年イスラエル王国は、北イスラエル王国と南ユダ王国とに分裂してしまいました。そして、北イスラエル王国は紀元前722年に、軍事大国アッシリヤ帝国にほろぼされてしまうのです。アッシリヤ帝国は、強制移住・混血でもって手中に収めた国々の民の力を弱めてしまう政策を採ったので、かつて北イスラエル王国だった地域ガリラヤでは混血が進みました。こういう状況にあってガリラヤ人は、かえってイスラエル人としての意識を強く持ったそうですが、それで、南ユダ王国の人々からは「異邦人のガリラヤ」と侮蔑の意味を込めて呼ばれるようになったそうです。
 異邦人は「暗闇の中にすわったいる人々」であるといいます。それは霊的な暗闇です。創造主であるまことの神を知らず、迷信の闇に閉ざされているのです。実際、死んだ石や木や金属を刻んで作った偶像を拝み、占いをしたり、たたりを恐れたりしながら日々を過ごしています。
けれども、紀元前8世紀に現れたイザヤの預言によれば、この「異邦人のガリラヤ」に神様からの偉大な光、メシヤの光が輝く日が来るとされていました。そして、イエス様がヨハネからバプテスマを受けて、メシヤとしてこのガリラヤに帰還なさったとき、イザヤの預言が成就したのです。
 マタイ福音書は、最初の系図から、異邦人の救いというテーマに触れています。ハガル、ルツといった異邦人の女性の名がイエス様の系図にはいっていました。また、イエス様の誕生の祝いにやって来たのは、東方の異邦人の博士たちでした。そして、イエス様の宣教の前半は「異邦人のガリラヤ」で行われるのです。イエス様はユダヤ人だけの救い主ではなく、異邦人にとっても救い主だということが、ここにもう一度出てきました。「キリスト教は西洋の宗教だ」という誤解がありますが、実際には、欧米人も日本人と同じように聖書の基準からいえば異邦人なのです。イスラエル民族以外はみんな異邦人です。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」これが、主イエスの私たちに与えられた使命です。

2.弟子の任命

 いよいよガリラヤ宣教開始です。イエス様は宣言します。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」天の御国の「国」と訳されることばは、王的支配という意味です。ですから、天の御国とは神が王として支配するということです。自分を中心にしている傲慢な人生を方向転換して、造り主である神様をあなたの人生の王座にお迎えた正常な生き方をしなさいということです。
 神の御子イエスの宣教において、最初になさった仕事はなんでしょうか。大衆への伝道ではありません。イエス様の最初の仕事とは身近において訓練し、後にご自分の代理としてあちこちに派遣なさる弟子たちを選び出すことでした。イエス様は、ちゃんと宣教の最初からマスタープランをもっていらっしゃったのです。イエス様が直接に行う伝道はわずか3年間でしたから、その後の世界への宣教は弟子たちに託すのだというプランをもっていらっしゃったのです。ですから、いの一番に弟子たちを任命して、彼らを御自分の後継者として育て上げるための訓練をしながら、宣教活動を展開して行かれたのです。

 では、イエス様はどのような人たちを御自分の弟子としてお選びになったでしょうか。ここに後に四人の男への召しの記事がしるされています。彼らはみなガリラヤ湖の猟師でした。漁業は、ガリラヤにおける当時の基幹産業です。彼らは働き盛りの男たちでした。まず、シモン・ペテロと弟アンデレです。
 

「4:18 イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 4:19 イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』 4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。」

 「すぐに網を捨てて従った」というのは仕事を捨てたという意味です。彼らは、すでにユダヤ地方にいたときにイエス様と面識があったとヨハネ福音書には記されていますから、なにもわけがわからないままにすぐに網を捨てたのではありません。イエス様が、ヨハネによって世の罪を取り除くお方であると知らされていたのです。そのイエス様から伝道者としての召しを受けたら、今までの手馴れたガリラヤ湖の漁師という仕事をいさぎよく捨てて、自分の人生をささげたのです。福音を伝えるという務めに専念するためです。
 次はヤコブヨハネに対する召しです。

「4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。 4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」

 今度はヤコブヨハネです。こちらには「舟も父も残してイエスにしたがった」とあります。舟はやはり彼らの漁師という仕事を意味します。そして、彼らは父親までも残してイエスにしたがったのでした。ヤコブヨハネはボアネルゲすなわち雷の息子たちとイエス様からあだ名されました。彼らの気性が激しかったからだというのが普通の解釈ですが、ある人は、そうではなくて、イエス様がヤコブヨハネをお召しになって彼らが網を放り出してついていくので、彼らの親父さんが「この馬鹿者!」と雷を落としたからだと解釈していました。雷親父の息子だというのです。あるいは、そうかもしれません。
 ともかく、要するに、主イエスからの伝道者としての召しを受けた人ならば、その人は主に従うためにはこの世の仕事を捨て、富を捨てよ。さらに、かりに親の猛反対があったならば、やむをえない、そのときは親も後にして、主イエスに従うべきです。イエス様の召しは絶対のものであって、抵抗できないのです。神学校にいたとき、どうしても親の理解が得られず、親に勘当されて来ている同級生が二人いました。
 同盟宣教団の創始者フレデリック・フランソンは献身志願者に三つの問いをしました。
  「君は救われているかね?」
  「君は迷える魂をキリストに導いたことがあるかね?」
  「君はキリストのために喜んで死ぬことができるかね?」
 これら三つの問いに明確に「イエス」と答えた者だけを献身者として受け入れ、訓練を施して宣教地に派遣したのです。1891年、明治24年11月23日、日本にも、そのようにして男女15名の宣教師たちが横浜に上陸して、同盟宣教団の働きが開始されました。到着早々、天然痘でメアリ・エングストンという宣教師を失いましたが、残された宣教師たちは、飛騨高山・伊豆・北海道といった僻地への伝道へと立って行きました。私たちの教会は馬流元町に借家の今で伝道を始めて来年で20年目になります。来年は20周年記念行事として、飛騨に出かけたらどうかななどと役員会で話をしています。

3.イエス様の宣教・・・伝える教会、仕える教会。

 最後に、イエス様のガリラヤ宣教がどういう内容のものであったかということが概括されている23節から25節を見ましょう。キリストの宣教は、とりもなおさず、キリストのからだであるわたしたち教会の宣教なのです。
 

「4:23 イエスガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。 4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。 4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」

 イエス様の宣教は、最初からみことばと社会奉仕の二本立てで行われました。みことばというのは、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」たことです。教会内での教え、そして、外にむかっての伝道です。そして、社会奉仕というのは、「民の中のあらゆる病気、あらゆるわざわいを治された」ということです。また、使徒の働きにみる、初代教会の働きもみことばと社会奉仕という二本立てで行われました。みことばの宣教とやもめたちへの配給ということがなされていました。これは、古代・中世・近世の教会でも同じでした。産業革命が起こって、農村で食べられなくなった人々がイギリスのロンドンやマンチェスターに集中して人口が爆発し、貧民外街が形成されて際暗黒のイギリスと呼ばれる時代、そこで福音を伝えると同時に、社会救済の働きを展開したのは、ジョン・ウェスレーたちの福音主義運動であり、社会鍋で有名な救世軍でした。その後一時期、社会改革は共産主義者の専売特許と思い込まれていた時代があって、教会はそれへの警戒感から、伝道のみに専念する伝道派と、伝道を軽視して社会運動ばかりをする社会派に分かれてしまったことがありました。しかし、1974年に反省が起こりまして、イエス様の宣教は、みことばと社会奉仕の両輪を意識するようになりました。
 先日、信州夏期宣教講座が行われ、朝岡勝牧師が講演のひとつを担当しました。その題は、「伝える教会から仕える教会へ」ということでした。朝岡先生は、昨年の地震以来、同盟教団の東北支援本部の事務局の責任をとって東奔西走してくださっていますが、その経験からの話でした。 東北は、非常に保守的でなかなか伝道が進まない地域として知られます。農村地帯、漁村地帯が多くて、それぞれの地域が閉鎖的です。そういう地域では、外部から来た人を「よそ者」と「客人」と呼ぶそうです。寺の坊さんは「客人」とされていましたが、キリスト教会は「よそ者」とされていたのです。けれども、今回の震災において、どの団体よりもすばやく、積極的に、親切に動いたのは国内外のキリスト教の諸団体だったそうです。そういう体験を通して、東北の多くの人たちは、今、キリスト教徒たちをよそ者ではなくて客人として遇してくれるようになったというのです。そうして、徐々に福音にも耳を傾けてくれるようになってきたということです。
 今までも福音のトラクトなどを一年に一度まいたり、伝道会を開いて招いたりしてはいたのです。教会は「伝える」ことに専念していました。けれども、地域に仕えることをしないで、ひたすら言葉で伝えることだけをしてきても、なかなか地域の方たちからの信頼を勝ち得ることはできませんでした。また、小さな群れでは社会奉仕にまでまわすお金も人材もないからやむをえないとされていました。ですが、震災のなか全国の支援を得て仕えることを通して得られた関係を通して、福音を伝えることができるようになってきたというのです。
 原点に立ち返れば、イエス様の宣教は、最初から、仕えることと伝えることとの両輪で前進していったのです。私たちもまた信州の山間部の小さな群れです。人もお金もないといえば何もできなかったでしょう。けれども、イエス様のご命令を信じて、教会の両輪は福音の伝道と社会奉仕であると意識していると、不思議に神様は社会奉仕のチャンスをも恵んでくださってきました。一つは、通信小海で聖書からの社会の見方についてお伝えしたこと。一つは、通信小海で藤田寛兄が主宰している野宿者支援のためのお米集めのお手伝いをさせていただいたことです。地域の方たちも、そういう働きを知って、それなりの信用をしてくださって来たように思います。

むすび
 キリストの宣教が始まりました。三つのことをまとめます。
1 だれに?・・・異邦人のガリラヤと呼ばれる地域の人々に向かって。福音は世界のあらゆる民族をこえて伝えられていくものなのです。
2 だれを用いて?・・・イエス様は後継者となる弟子たちをまず選んで、伝道を始めます。イエス様はイエス様に自分の人生をささげる人を用いてくださいます。
3 何を?・・・・・イエス様の宣教は、伝道と社会奉仕の両輪で行われました。小なりとはいえ、私たちも主イエスに倣ってまいりましょう。