苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの勝利にあずかる

マタイ4:1−11
2012年9月2日 小海主日礼拝


          ヤコブのはしご

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
エスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
エスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
エスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」

1 二人のアダム

ヨハネから洗礼を受けたあと、いよいよ福音宣教を始められるのかと思ったら、そうではなくイエス様はユダヤの荒野に行かれました。ユダヤの荒野は、石切り場のような風景がえんえんと続いているという感じの赤茶けた岩砂漠で、ところどころに潅木が生えているだけです。昼は厳しい日差しが容赦なく照り付け、夜はしんしんと冷え込みます。悪魔は荒野でイエス様を試みようと待ち構えていたのです。

 「4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」

とあります。イエス様が悪魔の試みに遭うことは、御霊の導き、つまり、父なる神のみむねでした。イエス様はバプテスマを受けて、まず悪魔の試みに遭うということを御自分の救い主としての任務とされたのです。
 イエス様が経験なさった試みは、救いの歴史の中の位置づけますと、最初の人アダムが受けた試みと「対」の出来事でした。このときイエス様は、父なる神様の前で、人類の代表です。ですから、イエス様は「第二のアダム」と呼ばれることもあります。アダムが人類の代表として悪魔の試みを受けたと同じように、神が人となられたイエス様は人類の第二の代表として悪魔の試みに遭われたのです。人は、アダムという代表に属するか、あるいは、イエス・キリストという代表に属するか、二つにひとつです。生まれながらには人は第一のアダムに属していますから、実際、すべての人はアダム以来の罪の性質を受けて生まれてきます。いわゆる原罪です。結末は滅びです。しかし、人生の途上でキリストの福音と出会い、受け入れるならば、キリスト・イエス様に属する者となって永遠のいのちに入れられるのです。

 ところで、アダムとイエス様は人類の代表として悪魔の試みにあったという点では共通していますが、試みに遭われた環境はずいぶんと違っています。アダムは、この上なく快適なエデンの園で、善悪の知識の木を例外として、どの木からでも滋養たっぷりのおいしい木の実をとって食べて良いとされていました。他方、イエス様のほうは40日間断食なさったあと、じりじり太陽が照りつける炎天下、あるいは、砂嵐が吹きすさぶ荒野で、食べ物などまるで見当たりません。
 これは堕落前と堕落後の、人間の置かれている環境のちがいを象徴しているのでしょう。堕落前、人は最善の環境にあり、あえて罪を犯す必要もなく、自由意志をもって神に対する服従を選ぶには有利な立場にありながら、アダムはあえて罪を犯しました。
アダムが堕落したとき、神様は、アダムにおっしゃいました。「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。土地はあなたに対していばらとアザミを生えさせる・・・」、被造物世界もまたのろわれた状態になってしまったのです。イエス様が試みを受けるためにいらっしゃった荒野は、こうしたのろわれた被造物世界を象徴しているようです。しかし、イエス様は、こうした最悪の環境で、悪魔のこころみに勝利を得られたのです。イエス様は勝利者です。

2 肉の欲への試み
 
 悪魔の誘惑は肉の欲、目の欲、虚栄心に対するものでした。まず肉の欲に対する試みです。

「4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 悪魔は意地悪ですね。イエス様がおなかがすいて、なにか食べたいなあと思っていると、それに付け込んでくる。パレスチナの荒野にはパンのかたちをした石がゴロゴロ転がっている場所があるそうです。

あれが欲しい、これが欲しいと思っているとそれに付け込んでくるのです。ヤコブ書に、「1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。悪魔はまず、肉体的・物質的な欲求を悪魔は攻撃しました。
エデンの園で最初の人アダムの妻に対する場合は、禁断の木の実は「それは食べるのによく・・・」と書かれています。食欲をそそられたのです。悪魔は、イエス様に対して言いました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」
 イエス様の答えは、旧約聖書申命記の引用でした。しかし、注意してください!この二重括弧の中です。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』というのは、「パンはもちろん必要だけれど、聖書もまた大事ですよ」という意味ではありません。そのように誤解している人がとても多いようです。考えてみてください。「パンも必要だけど、聖書も必要です」などと返事をしたら、悪魔は「そうだろう。パンも必要だろう。だから、石をパンに変えろと言っているんだよ。」とさらに誘惑するだけのことでしょう。
エス様は申命記を引用して何を言おうとし、また悪魔はそれを聞いてへこんだのでしょうか。イエス様が引用なさった申命記のその箇所の前後を見る必要があります。申命記8章2、3節。

「8:2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」

 かつて、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して荒野を旅した40年間、彼らは荒野で何を食べて生活したのでしょうか。パンはありません。あのとき神様はそのことばをもって作られたマナという不思議な食べ物をもって彼らを養われたのです。ですから、イエス様が悪魔を論破なさったことば、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」の真の意味は、「人はパンだけで生きるのではなく、神がことばをもってつくられたマナによっても生きて行けるよ」という意味にほかなりません。つまりは、神様は、神様を信じて従う民には、食べ物をはじめとして物質的な必要を満たして、生かしてくださるのだという意味にほかなりません。つまりは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食)は、それに加えてすべて与えられます。」という約束と同じ意味です。そのように言われたからこそ、悪魔はすごすごと退散したのです。悪魔もまた、ちゃんと申命記を記憶していたのですね。
 どんな場合でも、イエス様を信じ神様を第一にして生きていくことです。そうすれば、イエス様は必ずあなたの経済的・物質的な必要も満たしてくださいます。だから、大胆にイエス様にしたがってまいりましょう。 悪魔の物質的誘惑に打ち勝つ秘訣は、神に信頼して神の国とその義を第一に求めることです。
 
3 目の欲への試み

 次に目の欲に対する誘惑です。

4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 「目の欲」というのはアウグスティヌスの解釈によれば好奇心です。「高いところから飛び降りてみたい」という風な危険に対する好奇心を悪魔がくすぐったのです。麻薬・覚せい剤をやったらどんな風になるんだろう・・・面白そうだな、というのも好奇心です。そんなことをしたら、身を滅ぼすかもしれないとわかっていて、それでも人がその危険の中に入っていくのは「目の欲」への悪魔の誘惑に敗れたせいです。アダムの妻の「目の欲」に対して悪魔が誘惑したときは、禁断の木の実は彼女の「目に慕わしかった」と表現されています。
 しかも、今回悪魔は、イエス様を誘惑するにあたって、旧約聖書を引用しています。6節の二重括弧『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』というのは、旧約聖書詩篇91:11,12からの引用です。イエス様が旧約聖書の引用をもって、第一の試みに耐えたので、今度は悪魔は「何をこしゃくな、俺だって・・・」と旧約聖書を引用したのです。悪魔は聖書をよく知っていて、曲解へと私たちを導こうとするのです。
 これに対して、イエス様は、正しい聖書引用をもって、悪魔を撃退しました。「あなたの神である主を試みてはならない」と。これは申命記6章16節の引用です。
 この際、正しい聖書解釈について考えて見ましょう。聖書解釈学という学問があって、そこには、解釈原則としていろいろと教えられます。文脈をわきまえなさい。歴史書か、書簡か、預言か、詩か、その文学ジャンルをわきまえなさい。ヘブライ語ギリシャ語で読みなさい。いろいろな翻訳を比較しなさい。などといろいろ教えられています。これらはもちろん大切なことでしょう。しかし、どんな解釈技術よりもはるかにたいせつなことがあります。聖書解釈においてもっとも大事なことは、神様を愛し、信頼し、神様にしたがうという目的をもって聖書を読むという心の態度です。神様に反逆するつもりで、神様のしっぽを握ってやろうといった態度で聖書を読んでも正しく理解はできません。悪魔がしたように、神様を試みる思いで聖書を読んでも正しく理解することはできません。イエス様は、「あなたの神である主を試みてはならない」とおっしゃいました。神様を信頼せずに聖書をいかに読んでも無駄、いや有害なことです。
 人のおもな目的とは、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことですから、まして、聖書を読むときの心の態度は、へりくだって神に信頼していることが肝心です。目の欲に対する誘惑に勝利する秘訣とは、神への信頼です。

4 権力欲・虚栄心にかんする誘惑

 第三に、権力欲あるいは虚栄心に対する誘惑です。悪魔は人としてのキリスト・イエス様に不思議な幻をもって、世界中の国々の王国の栄耀栄華のありさまを見せました。当時西はローマ皇帝ティベリウス)の宮殿、東は大漢帝国(後漢光武帝)が栄えていました。

4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、 4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

多くの男にとって、権力の座というものは魅力的なものなのでしょう。王となる、大統領になる、総理大臣になる、経団連経済同友会の会長、医師会会長となって、人を支配する力を持つということです。女性のばあいは、その種の欲は虚栄心として現れるようです。いわゆる暮し向きの自慢というのでしょうか。 山の手のどこかの高級住宅街に住み、車はあの高級車ですとか、宅の主人はナントカ商事の部長ですとか、家族の衣料品は下着までみんな三越ですとか、軽井沢に500坪ばかりの別荘がありますとか、まあ、そんな自慢をしたいという欲求、それが虚栄心です。「虚栄」というのは、読んで字のごとく「むなしいさかえ」です。
別に、「お宅は三越ですか、うちの衣料品はすべてシマムラです。余ったお金は全部貯金しています。」と誇れるわけでもありません。本物の栄光というのは、神様の前で賞賛されるもので、それは、神様が与えてくださったタラントにしたがって、どれだけ神様を愛し、隣人愛の実践をしたかという基準で決まるのです。総理大臣・経団連会長・医師会会長・大統領になってもよいのですが、その立場で、どれだけ、神と隣人のために愛をもって仕えたかが測られるのです。あるいは、お金を持っても良いのですが、それをどれだけ神を愛し隣人を愛するために散らしたかが測られるのです。
自分のためにどれだけ贅沢をしたか、どれだけこの世で肩書きや名声を得たかというようなことは人にはほめられても、神様の前では栄光ではなく逆に、恥なのです。自分では輝かしいと思い込んでいて、神様の前に出たら、恥ずべきものだったということを知ることになるので、虚栄はまさにむなしい栄えなのです。
 悪魔は、こういう虚栄心につけいってくるのです。そして、自分をあがめるならば、こういうこの世の権力の座、虚栄に満ちた地位を約束しようというのです。実際、こういうものを手に入れるために、悪魔にたましいを渡すといった取引をする人々がいるそうです。権力者とか芸能人とか金持ちになりたがる人には占いとかオカルトとかいう暗闇の世界にかかわりを持ってしまう人がいます。
 しかし、イエス様はこうした悪魔の誘惑に対しても、正しく解釈した聖書のみことばをもって勝利を得られました。「4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」悪魔の権力欲・虚栄心をくすぐる誘惑に対する勝利は、イエス・キリストにあって、まことの神のみを礼拝するということによってのみ得られるものです。

むすび
 荒野の40日間の試みにおいて、イエス様は第二のアダムとして悪魔の試みにみごとに勝利を収めてくださいました。かつて、アダムがエデンの園で誘惑に負けてしまいましたが、このたびイエス様は勝利をえてくださったのです。それは、真の神を信頼しきる者としての勝利でした。
 キリストは、第二のアダムとして悪魔に対してすでに勝利されたので、キリストを信じるわたしたちは信仰によって悪魔に対する勝利者となっているのです。
 それと同時に、私たちはすでに悪魔に対する勝利を得たものとして、日々の生活のなかで、キリストの足跡に倣いましょう。私たちも天の父にまったく信頼しきって、真の神のみを礼拝し、勝利者として歩みましょう。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」ローマ16:20

パンの石の出典:http://www.bible.or.jp/common/photogallery/gallery200807.html