苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

眼鏡としての聖書

 宮村先生はたとえの名手である。今回のお話のなかで、へえ!と思ったのは、聖書を眼鏡にたとえられたことである。聖書を眼鏡にたとえるのは珍しくないと思われるだろう。だがおっしゃる内容がチトちがうのだ。
 「眼鏡は大事なものです。けれども、眼鏡の緻密な研究ばかりしていて、眼鏡でものを見ようとしないなら、もし眼鏡が生きていたら、『私ばかり見ていないで、私でこの世界を見てくださいよ。』と言うでしょう。同じように、神のことばである聖書は大事だけれども、聖書の重箱の隅をつつくような研究ばかりしていることは、眼鏡の研究ばかりしていて、眼鏡で世界を見ないようなものです。私たちは、聖書で世界を見なければなりません。それが神学です。」
 宮村先生によれば、神学とは聖書で神が造られたこの世界を見ることである。先生は沖縄にいらしたときは、「台風の神学」を唱えておられた。聖書的な観点から、台風について神学をなさったのである。「台所の神学」「山国の神学」・・・なんでもいい、聖書的な観点から、その対象についての神のみこころを考えること、それが神学であると言われた。
 宮村先生の『存在の喜び―もみのき幼児園の十年』は、そういう意味での神学で満ちている。この本を初めて読んだとき、四季折々の園の行事や、子育てのことや、園庭の立ち木の姿や、さまざまな事柄が、聖書の眼鏡を通していきいきとした意味あることとして輝いて見えてくることに驚いた。
追記
 聖書という眼鏡で神様を見るというのは普通のたとえですが、聖書という眼鏡で世界を見るというのです。


こちらで、送料無料で買えます。 http://books.rakuten.co.jp/rb/%E5%AE%AE%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB%E8%91%97%E4%BD%9C%EF%BC%887%EF%BC%89-%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%92%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AB-%E5%AE%AE%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB-9784946565564/item/11461770/