苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

インマヌエル・イエス

Mt1:18−25
2012年7月22日 小海主日礼拝
with an English outline

  (庭にコスモスが咲きました)

序 女のすえとして
「1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
 ヨセフとマリヤは婚約していましたが、まだいっしょにならないうちに、聖霊によって神の御子イエスさまをみごもりました。これは、神様の遠い昔になさった約束の成就でした。人類の始祖アダムとエバがへび(サタン)の誘惑に敗れて、罪に堕ちた時、神様はへび(サタン)に対して次のようにおっしゃいました。
「3:15 わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。」
 つまり、女の子孫と呼ばれる方が、サタンを踏み砕いて勝利を得ることになるという約束でした。しかも、そのサタンに対する勝利者メシヤは「女の子孫」という不思議な名で呼ばれています。普通、人間は、男と女から生まれてくるわけですが、イエスさまは女のすえであると言われているのです。ですが、イエス様の誕生の不思議な出来事を見てゆくとき、なるほど、イエス様は女の子孫としてお生まれになったのだとようやく納得できます。 イエス様は、アブラハムダビデの家系のヨセフの家に生まれるものの、ヨセフから子種を得ているわけではありません。神の御子イエス様は、おとめマリヤから奇跡の誕生をなさったのでした。

1 ヨセフは正しい人であって・・・

「 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
 さて、救い主、神の御子の養い親という、とてつもなく大きな責任を負うことになったのがヨセフです。ヨセフと言うのはどんな人物だったのでしょうね。聖書の中で、ヨセフはひとことも話していません。ただ、この19節はヨセフの人となりが短いことばでよく表現されているなあと感じます。
 神様はヨセフを「正しい人であった」と評価なさっています。その正しさというのはどういうものだったのでしょうか。旧約の律法を読みますと、夫がいるにもかかわらず、他の男と関係を持った男は姦通の罪を犯したものとして処刑される可能性がありました。ただし、それが男がむりやりに彼女を犯した場合は、彼女の罪とはされませんが、そうでなければ石打の刑です。
ヨセフとしてはマリヤを裁きの場に突き出す権利が法律上あったのです。それは一つの正義のありかたでしょう。けれども、ヨセフはそうしませんでした。彼は一度自分の妻にと約束をしたマリヤをさらし者にするに忍びなかったのです。ヨセフはマリヤを信頼していて、マリヤは誰かに暴力的に犯されてしまったのだと信じていたからです。
それにしても、このまま娶るというのも神の前に正しいことであるとは思われませんから、ヨセフはマリヤを内密に去らせようと決めたのです。こうしたケースでは、善悪を教条的にすっぱりと割り切れるものでもなかったわけです。ヨセフの判断は、マリヤを愛するということと、神様を愛するということから出て来た判断でした。とてもむずかしい判断です。
私たちは「何が善であり、何が悪であるか」ということを、表に照らして、白黒ぱっぱっぱと判断できれば、気楽で便利だと思いがちかもしれません。確かに誰が見ても明白な罪というのはあります。しかし、私たちの生活に起ってくることは、しばしば複雑です。ひとつひとつの場合によって、私たちは神を愛することと、隣人を自分のように愛することを両立させる道はなにかと悩み祈り求めてことを判断しなければならないことがあります。そういう、神を愛し、隣人を自分のように愛することを願って、祈り判断するということが、私たちがヨセフに学ぶべきことです。

もう一つ、ヨセフが神を畏れる正しい人であったことがよく現れているのは、24,25節。
「1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、 1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
新婚の夫が新妻に指一本ふれないというのはつらいことだったでしょう。しかし、わが妻とはいえ、神が聖別し、メシヤが宿った女性です。彼はマリヤに触れることをしませんでした。それは、み使いに命じられ、制限されたことではありませんでしたが、神を畏れるヨセフが自ら慎むべきであると考えて慎んだのです。
神の前に正しいというのは、律法の細かな字句を余さずに知っていて、そのつじつまを合わせて、最小限律法違反とならないように行動するということではないのです。そうではなくて、心から神を愛し、神が賜った隣人を愛して、正しい道を選んで生きるという根本的な姿勢が大事なのですね。ヨセフにかんする聖書の記述はとても少ないのですが、彼の行動を見るとき、神様を畏れること、神の前に正しく生きるということはどういうことか、深く教えられるのです。

2 キリストの名ふたつ

 ヨセフは正しい人として悩みました。そんな彼に、神様は主の使いを遣わしてヨセフに、これは待ち望まれたキリスト、救い主の誕生なのだと告げます。ここにはキリストの二つの名が告げられていて、イエス様がくださる救いの二つの側面を表わしています。一つはイエスです。

(1)罪からの救い主・・・・・救いの消極的側面
「 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
 名は体を表わすといいますが、イスラエルでは特にそうでした。イスラエルでは、子の名前を付けるにあたって、意味深い名を与えました。約束のメシヤの名を決めたのは父なる神ご自身です。それは「イエス」という名でした。これはギリシャ的発音で、ヘブル語でいえば、イェホシュアハつまりヨシュアという名前です。旧約聖書の英雄の名ですから、ユダヤ人の間ではポピュラーな名前です。イェホシュアハというのは、「主は救い」という意味です。だから、「この方こそ御自分の民をその罪から救ってくださる方です」と説明がついています。
 ついこの間の火曜日、一通の白い封書がとどきました。裏を見ると「新天地イエス教証幕屋聖殿」という怪しげな差出人です。開いて読んでみると、とんでもない聖書解釈。そして、韓国でも米国でも、「その方」の大集会が開かれて多くの人が導かれているというのです。イエスさまの再臨が近くなると、「わたしこそれだ」という偽キリストと、偽預言者がたくさん世に出現するから、「ほらキリストがここにいる」「あそこにいる」と言われても、惑わされないようにしなさいとイエスさまがおっしゃったとおりです。
 こうした時代、私たちは救い主がどのようなお方であるかを正しく知っておく必要があります。イエス・キリストが救い主であるというのは、私たちを何から救ってくださるのでしょうか。イエスさまは「罪からの救い主」です。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」とあるとおりです。 世には、いろんな救いを告げる宗教や救い主がいます。貧乏から救ってあげましょう、病気から救ってあげましょう。水子のたたりから救ってあげましょうなどという「救い」を提供する宗教があります。
 でも、自ら十字架にかかって私たちを罪の呪いから解き放ってくださるのは、主イエス・キリスト様ただ一人です。貧しさはあなたを神から引き離し、地獄に落とすことはできません。病気もあなたを神から引き離し、地獄で滅ぼすことはできません。しかし、罪はあなたを神から引き離し、地獄で滅ぼしてしまうのです。私たちにほんとうに必要な救いとは罪からの救いであり、主イエスは私たちを自分の罪から救うためにきてくださいました。
 
(2)インマヌエル・・・・・救いの積極的側面
 ついでキリストのもう一つの名が、旧約聖書イザヤ書を引いて述べられています。それはインマヌエルです。
「1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
 インマヌエルとは、旧約聖書イザヤに神が教えられたメシヤのもう一つの名前です。「神われらとともにいます」という意味です。イエス様が、罪から私たちを救ってくださると言うことが、救いの消極的側面だとすれば、救出した私たちを神様とともに生きる人生へと入れてくださるということ、これが救いの積極的側面です。
パスカルはパンセのなかにキリスト教弁証論の構想を記しています。二部構成です。第一部は「神なき人間の悲惨」第二部は「神とともにある人間の至福」です。さすがです。聖書が啓示する滅びと救いの本質をきちんと把握しています。この世にあろうと、次の世であろうと、滅びとは神なき人生、至福とは神とともにある人生です。
 もともとエデンの園は神と人とがともに交流することのできる幸いな楽園でした。神の戒めに背いて以来、その子孫たちは、神なき人生をさまようことになってしまいました。そこに、イエスさまが来られました。イエスさまは、神であられながら、私たちのために人としての性質を帯びてくださったのです。イエスさまは、罪はおかされませんでしたが、私たちの弱さをもご存知で同情することがおできになる方なのです。私たちはイエスさまにあって、神様がこんなにも身近にいてくださるお方であることを知り、日々経験することができるようになりました。
 さらに、私たちが死の陰の谷をさまようようなときにも、イエスさまはともにいてくださいます。イエスさまご自身がゲツセマネとあの十字架において、押し迫る死の恐怖と苦しみとを経験してくださいましたから。
さらにイエスさまにある者は、この世を去るときに、復活を待ち望みつつ霊としてイエス・キリストとともにいることになります。使徒パウロは、そのことを渇望していましたね。「1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。 1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。 1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:21−23)
ルターは言いました。「もし私が天国に行っても、そこにキリストがいらっしゃらないならば、そこは私にとって地獄である。もし私が地獄に堕ちても、そこにキリストがいらっしゃるならば、そこはわたしにとって天国である。」いかにもルターらしいことばです。
さらに、イエス・キリストを信じる者は、世の終わりに新しい天と新しい地が完成するとき、キリストとともにその都あたらしいエルサレムに住まうことになります。それこそ至福です。ほんとうに自分の罪のしみが抜き去られ、この世のすべての悪が滅ぼされ、なんの妨げるものもなく、思う存分主イエス・キリストとともある、インマヌエルの喜びを味わい、ご奉仕することができる、それが新しい天と新しい地なのです。
十字架の贖いによって罪から救ってくださり、神とともに生きる人生を与えてくださる。私たちの主は、まさに、インマヌエル、イエス・キリストなのです!




Matt 1:18-25
Jesus Immanuel

1. As the offspring of the woman

18This is how the birth of Jesus Christ came about: His mother Mary was pledged to be married to Joseph, but before they came together, she was found to be with a child through the Holy Spirit.
After Adam and his wife ate the fruits forbidden to eat, God promised that He would send a Savior called "the offspring of the woman". Jesus is the Savior born from the virgin Mary.

2. Joseph was a righteous man

19Because Joseph her husband was a righteous man and did not want to expose her to public disgrace, he had in mind to divorce her quietly.
The woman who committed adultery had to be killed according to the law. Joseph could prefer charges against Mary and take her to the judges, but he did not, probably because he thought his wife was a victim and he loved her. But at the same time he thought he should not marry with her since he feared God. So he was going to let her leave quietly.
The Bible says Joseph was a righteous man. He was not righteous not because he obeyed the law with superficial understanding but because he loved God and his wife with profound understanding.

24When Joseph woke up, he did what the angel of the Lord had commanded him and took Mary home as his wife. 25But he had no union with her until she gave birth to a son. And he gave him the name Jesus.
It is not easy for a new husband not to touch his wife, but Joseph did not touch her because God sanctified Mary as the mother of the Son of God. The angel did not command him not to do so but Joseph did not, because he feared and loved God.
There is no record of Joseph’s statements in the Bible, but we can learn a lot from his behavior.

3. Two names of Christ means both sides of salvation

20But after he had considered this, an angel of the Lord appeared to him in a dream and said, “Joseph, son of David, do not be afraid to take Mary home as your wife, because what is conceived in her is from the Holy Spirit. 21She will give birth to a son, and you are to give him the name Jesus, because he will save his people from their sins.

The father in heaven gave His son the name Jesus that means
“The Lord is salvation”. Indeed there are some other kinds of salvations, for example, the salvation from poverty, the salvation from disease and so on, but Jesus gives us the salvation from our sins. Poverty and disease cannot push us to hell but sins can. The salvation from sins is necessary for us.

23“The virgin will be with child and will give birth to a son, and they will call him Immanuel” —which means, “God with us.”
Another name was Immanuel that means,”God with us”. Salvation has two sides. Salvation from sins is a negative side of it and Immanuel means the positive side. Jesus brings us out of sins into the life with God. God gives a lot of kinds of blessings to the faithful, but the essence is the life with God. The blessing in the heaven is the life with God.