苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライトについて


     散歩の帰り見かけたスイレン



 kamiokanokyokaiさんから、聖書がいう来世についての質問関連でN.T.ライトのサイトの引用がされていたので、私なりの見方をメモしておきます。私はライトについてさほど知る者ではありませんので、ライトについて誤解している点があれば、読者からコメントをいただければと思います。

1.N.T.ライトは、最近の福音派の一部から過大評価(?)されている理由

a.古代教会教父・1世紀のユダヤ教にまで視野を広くもつ新約学者であること。
 もしライトが教父学者や教義学者であったら、教義に無関心で聖書に固着する福音派は彼にさほど関心をもたなかったでしょう。彼があくまでも新約学者・歴史家としてのスタンスに立ちながら、今まで聖書学者が知らなかった古代教父やギリシャ思想や1世紀のユダヤ教を参照して、新約聖書について述べるところが新鮮なのでしょう。

b.来世主義的で、世界観としてのキリスト教を持っていなかった福音派の人々の目には、ライトの提示する世界観的キリスト教が新鮮に映ったのでしょう。来世主義的ということは、わかりやすくするためにあえて極端に表現すれば、死んだあと天国に行くことが人生の目的なので、現世における人生には伝道以外、積極的意義を認めないという立場です。
 しかし、福音派でもカルヴァン〜カイパーの流れにある改革派的福音派の人々にとっては、キリスト教が世界観を提供することはあたりまえのことなので、ライトに格別新鮮味は感じないでしょう。私もそういう背景のある者として、ライトに特別な興味を感じないひとりです。


2.ライトの問題点として私が感じていること。

a.ライトの義認論
 ライトは義認を、罪との関係でなく、契約共同体に入れられることとして把握していますが、恐らくこれは義認と子とされることを混同したまちがいでしょう。義とされることと子とされることは、時間的には同時的ですが、論理的にはまず義認があり、つぎに子(相続人)とされるのです。人がアブラハム契約の共同体に入れられる、つまり子とされるには、まず罪を贖われて義とされ、そして、子とされねばなりません。詳細は下記を参照。
  http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20101211/p1
追記2016年5月>
 ライトの贖罪論においてイザヤ53章は決定的で、これを代償的に読まないことはありえないと知り合いに教えてもらいました。そうだとすると、近世のソッツィーニや近代のリベラリズムとライトは本質的にちがいますね。
追記2017年5月>
 ライトが1988年に神学辞典の「義認」の項に書いているところによれば、ライトはキリストが私たちの身代りに十字架刑を受けいられたとする刑罰代理(代償的贖罪penal substitution)を採用していません。彼は我々信じる者の「代表」として、十字架と復活によって悪魔に勝利したとは言いますが、信じる者の代理(身代わり)として十字架にかかられたことを軽視ないし否定するのです。やはり、これは重大な問題だと思います。
 しかし、1988年からすでに30年近くがすぎており、ライトはキリストの懲罰代理も大事だというふうに、軌道修正を図っているようにも見えます。このあたり、教義学者でなく聖書学者としてのあいまいさとして私には映ります。



b.ライトの終末論と新約聖書の死後観
第一に、ライトは現世において神のみこころが成るために生きることを強調し、(それゆえ来世主義的信仰を反省しているバプテスト的福音派には魅力的なのですが)、そのあまりライトはキリストの再臨にともなう携挙をたとえであって現実ではないとして否定している点で、非聖書的です。http://ntwrightpage.com/Wright_BR_Farewell_Rapture.htm
<コメントをいただいて追記
 「携挙rapture」ということばは、ディスペンセーショナリズムの特殊用語ということなのだそうです。「主の御許に引き上げられて、空中で主と会う」ということをライトはそのままの意味では取っておらず、1コリント15章の「瞬時に霊のからだに変えられる」ことを意味していると取ります。(以上、追記
 新約聖書が主題的に述べる神の国は、キリストが初臨し聖霊が注がれて「すでに来た」という面と、キリストが再臨されてもたさられる「いまだ来ていない」という面の両面があります。キリスト者は原理的に「すでに来た」神の国が実際にこの世になるために、与えられたタラントにしたがって奉仕をします。それはこの世がすべてであるからではなく、「やがて来る」神の国で、より多くの奉仕をもって主にお仕えする希望があるからです(マタイ25:14−30)。「やがて来る神の国」への希望は、「すでに来た神の国」の奉仕の熱心のための力となるというのが、イエスさまの教えです。

  第二に、ライトは、「イエスさまを信じている人が死んだら天国に行く」という信仰は、ギリシャ的な二元論の影響を受けた初期ユダヤ教の影響による間違いであるとして、現世において神の国が成ることのみ強調しているようです。
http://amendoblog.blog137.fc2.com/blog-entry-990.html
 キリスト教の伝統的な天国理解にギリシャ的な「あの世」観の影響がまるでないとは私も思いません。しかし、聖書は、キリスト者は死後、すぐ天国に行くとはまったく教えていないでしょうか。そうではないでしょう。聖書は、主題的ではないにせよ、ピリピ1:21−23にあるように、「世を去ってキリストとともにいる」という状態になると述べています。イエスさまも十字架のかたらわの罪人に「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいる」とおっしゃいました。(もっともライトもパラダイスは否定しないそうですけどね。)古いからだを去って霊としてキリストのもとにおり(ふつう中間状態と呼ばれる)、やがて再臨の時、神の国に入るために新しいからだをいただいて復活するというのが聖書の述べているところです。

 第三に、ライトの主張ですぐれていると思うのは、聖書の基本的モチーフは、「神の国に行く」のではなく、むしろ「神の国は来る」ものなんだという点です。黙示録にも天のエルサレムが降りてくるともありますし、「御国をきたらせたまえ」と私たちは祈るのであって、「御国にはいらせたまえ」とは祈りません。主の再臨と新天新地が来るなら、新しいからだを与えられた神の民がそこで神の御前に生きていくというのが、聖書が言うところの究極的な意味での永遠のいのちの姿です。死んだ後に霊だけイエスさまのところに行くというのは、一時的なことであってあって究極的・永遠的な救いではありません。ですから、普通これを中間状態と呼びます。


3.一般的感想
 偉い学者は、聖書の中の自分の気に入ったメッセージを強調し新たな学説を展開したいとき、えてして自分の教説に不都合なことを聖書が別のところで述べていることを、一般読者が近づけないような古代の文書などを持ってきて、比喩なのだといって煙に巻いてしまう。N.T.ライトもそういうことをしているように思います。
 しかし、私たち牧師は、主にある兄弟姉妹に奉仕する、みことばのしもべです。自分の好きなところも、好きでないところも、余すところなく、神のことばとして受け入れて、バランスよく適切な聖書解釈をし、兄弟姉妹に分かつことが務めであると信じています。
 もうひとつ大事なことは、聖書神学と組織神学と歴史神学が聖書の正しい理解には必要だという点です。

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」使徒20:27


追記
 ライトが主イエスの空中再臨と聖徒の携挙を否定していることは、実践的な意味で致命的なことだと思います。主の再臨がちかづくとき、偽キリストが現れて、「ほらここにいる」「ほらあそこに」と宣伝がされ、主イエスの空中再臨と携挙を信じていない人々は、惑わされてしまいます。聖書が言うとおりに信じている信徒はそんなことに惑わされずに、「あす主が来られるとしても、きょう私はりんごの苗を植える」という健全な信徒としての生き方ができます。自分が主をさがしに行かずとも、主が御自分の民をを集めてくださることを知っているからです。
「そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる』とか、『ほら、あそこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。
  だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
  そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マルコ13:21−27)
 ライトの考えの枠組みの影響が、彼の携挙否定になっているように思われます。つまり<神の国は来るもの、降ってくるものであって、我々が天国に上っていくのではない>という枠組みです。

<さらに追記2017年4月>
 1テサロニケ4章の「空中に引き上げられて主と会う」の「会う」ということばは、主イエスのたとえ「花婿を出迎える娘たち」の「出迎える」ということば、また、使徒の働きの末尾のアッピア街道をやってくる使徒パウロをローマの教会の兄弟姉妹が「出迎える」ということばと同じことばです。この点については、ずっと以前にG.E.ラッドが指摘していることです。ですから、主イエスが再び来られたとき、聖徒は主を出迎えるために空中に引き上げられますが、引き上げられたままでなく、地に戻ってくるわけです。
 黙示録20章11節から21章への展開と合致します。最後の審判の白い御座が出現すると、古い地と天は逃げ去って跡形もなくなり、そのあと、最後の審判が行われて、21章で新天新地が出現して、そこに天のエルサレムが下りてきて大団円となります。主を出迎えるために引き上げられた聖徒たちは、主とともに新しい地に降りてくるのです。
 地上的な営みを強調したいライトは旧天旧地が逃げ去って跡形もなくなるのが気に入らないようですが、黙示録は旧天旧地と新天新地の断絶を際立たせる筆致で表現していますから、この点、彼の主張には無理があります。私たちの現在の血肉のからだと、復活の霊に属するからだとの間には連続性と非連続性があるように、旧天旧地と新天新地の間にも連続性と非連続性があると見るのがより聖書的の教えにかなっています。


   簾をつけました。