苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヒラメ問題

 大津の中2いじめ自殺事件について、校長は「生徒のSOSに気付かなかった。(いじめを警戒する)意識がほとんどなかった」と初めて会見で釈明している。複数の生徒が勇気を出して「いじめがある」と先生たちに報告がされているのに、校長はこれを「けんか」と認識して、事態の推移を見守ったとかいうのである。「事態の推移を見守る」とは格好をつけただけのことで、事なかれ主義で済ませようとしたというだけのことである。「いじめ」があると、教育委員会による校長の評価が下がるのだろう。
 生徒から「いじめがある」と声が出るとしたら、これは非常に深刻な状況なのだ。そういう通報をする生徒は、「ちくったな」と言われて今度は自分自身がいじめのターゲットとされる危険をあえて冒して通報しているのだから。教育関係者でありながら、こんな常識も知らないのだろうか。

 教師が生徒のSOSに気づかないのはなぜか? 教師が校長や教頭がつける勤務評定ばかり気にしているからである。校長が「生徒のSOSに気づかない」のはなぜか?校長が、教育委員会のご機嫌のみを見ているからである。そして教育委員会は、文科省のご機嫌ばかりを伺っているからである。みな上ばかり見ているヒラメなのだ。生徒はたまったものではない。
 ところで、なぜ教員は生徒が見えず校長・教頭ばかり見るヒラメになったのだろうか? 思うに、それは「君が代・日の丸」強制問題に象徴されるように、教育委員会は校長を取り締まる管理者となり、校長・教頭が教師を取り締まる管理者となったからではなかろうか。校長・教頭はなぜ教育委員会の顔色ばっかり見るヒラメになったのか。それは教育委員会が、「日の丸君が代」を踏み絵にしていることに象徴されるように、校長・教頭たちに圧力をかけるからである。教育委員会は、文科省の手先となりはててしまって、各地域における教育の自由・自立を失っている。都教委など、特高警察か憲兵みたいに、卒業式・入学式のときの教員たちを監視し、意に沿わなければ、呼び出して再教育をしている。こうして、文科省教育委員会こそがヒラメ教員、ヒラメ校長たちを生産しているのだ。教職員会議は、今はもはや教員たちの意見を聞く場ではないからある案件に挙手をもって賛否を問うことを禁じられていると聞く。教職員会議はたんなる上意下達の機会であるとされているのである。
 このようにして文科省が教育組織が上から下まで官僚化してしまったので、ヒラメ教育委員会・ヒラメ校長・ヒラメ教頭になり、現場の心ある教員たちまでもヒラメ化させているのである。それは、文科省が日の丸君が代強制に象徴される高圧的な姿勢を示し続けて来たからではないか。学校とは本来生徒たちの健全な育成を目的とする機関であるはずである。現場に生徒思いの勇気ある教員もいることは承知しているが、残念ながら、組織全体の傾向としては、教員たちは教頭・校長におびえ、教頭・校長は教育委員会におびえ、教育委員会文科省におびえている。
 大津の事件をきっかけに、文科省がさらに各教育委員会・各学校に対して締め付けを強めるなら、ますます学校はヒラメ校長とヒラメ教頭とヒラメ教員しかいなくなって、さらに子どもたちが犠牲となるだろう。文科省自身がまず猛省すべきであると思う。


追記1>
 類似の状況は、以前に書いたが、裁判所でも起こっている。裁判官は本来、法に基づいて独立的に公正な裁判を行うことを任務としている。しかし、裁判組織では最高裁が人事権を握っている。出世を望むヒラメ裁判官たちは、最高裁のおぼえがよいことを願うあまり、公正な裁判が行われなくなっているという指摘がある。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111201/p2

追記2>
 といって、文科省がどんな風に反省すればよいのかは、なかなか難しい。国が教育を手放すことはないだろう。
 思うに、少なくともいえる事は、「うちの学校はいじめはありません」という報告をする学校はよい学校で、立派な校長であるという、バカみたいに単純な評価はしないことだろう。子どもたちも罪ある存在である以上、いろんな問題が学校内には渦巻くだろう。それにどのように誠実に取り組んでいるかということこそが評価されるのがほんとうではなかろうか。

追記3>
 いじめが起こる場所は学校と刑務所であると昔から言われる。それは、閉鎖空間だからである。転職がむずかしい今日では、職場も閉鎖空間になっているので、陰湿ないじめが起こりやすい。
 学校を閉鎖空間でなくしてしまってはどうだろうか。塾ではいじめは起こらないという。出入りが自由だからである。私学でもいじめはひどくなりにくいという。理由は、いじめがあるような塾や私学では、評判が悪くなって、親が生徒をやめさせてしまい、学校にとっても死活問題だからである。経営者はいじめが起らないように、いじめをするような生徒は追放してしまうという覚悟があるからだとも言われる。
 これに対して、公立学校にはそういう経営危機の心配はない。ただ「いじめ」があると、教育委員会の校長に対する評価が下がる。だからとにかく入れたものは、形だけでも卒業までやらせる公立学校では、そういう動機が働かない。