苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

完成した御国で

          黙示録22:1-5
           2012年7月8日 小海主日礼拝

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
(黙示録22:1−5)

 私たちは1月から、聖書の教えを全体的に主題別に味わってまいりました。それは「木を見て森を見ず」という過ちに陥らず、森を見て木を見ることのできるバランスのよい信仰生活のためです。啓示、神、人、キリスト、聖霊(救い)、教会ときて、最後に終末についての聖書の教えの三回目で今回を結びとするつもりです。前回主イエスの再臨について学びましたが、今回は主イエスが再臨されたのちにもたらされる完成した御国がどのように祝福に満ちたものなのかということを味わおうと思います。
 開かれたのは、ヨハネ黙示録です。黙示文学という独特の書き方がされていますから、その解釈には少々注意が必要です。竜だとか海の獣だとか、陸の獣だとか、大淫婦バビロンだとか不思議なものが出てきたり、あるいは666とか144000人だとか千年だとかいうなぞめいた数字が出てきたりします。これらは皆、なにかを表すための表象ですから、旧約のダニエル書の説き明かしを参照しながら、その意味を読み取る必要があります。
 今日読んだのは、新天新地の都エルサレムありさまです。ここには、神を愛する民が住んでいます。本日のお話は、第一にいのちの水の川が意味すること、第二に完成した御国の環境のすばらしさ、第三に完成した御国の住民たちのことについてです。

1.いのちの水の川・・・・そもそも天国とは?
「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
 御使いはヨハネにイエス様を信じる者たちのために、神様が用意してくださった天から降ってきた新しい都エルサレムの幻を見せてくれました。都の城壁の門をくぐると、中はうるわしく整備されていて、その中央には水晶のように透き通るいのちの水の川がせいせいと流れています。
 創世記第二章のエデンの園を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。」(創世記2:10)と記されています。エデンの園の川は私たちが見る千曲川とか天竜川といった川と同じように、ふつうの水の流れている川です。他方、黙示録の新しい都エルサレム、天から下ってきたエルサレムの中央を流れる川の水は、ただのH2Oではなく、いのちの水の川なのです。この水は何なのでしょうか? 注目すべきは、その川がどこから流れ出ているのかという点です。いのちの水の川の源は「神と小羊との御座」なのです。父なる神と御子イエスの御座から流れ出ているいのちの水といえば、あきらかに聖霊様のことにほかなりません。
 ヨハネ福音書7章37-39節には次のようにあります。「7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
 父と御子から出ているいのちの聖霊が都中を満たし、そして新しい地全体に流れ出て潤している。それが天の御国のありさまなのです。聖霊がいらっしゃるところには、父なる神と御子のご臨在があるので、御国とは神が満ちているところなのだということです。
 私たちは、地上の教会の御霊にある交わりにおいて、その前味を少しばかり味わっています。私はイエス様を求めて教会に出かけたのは高校を卒業して浪人のときでしたが、初めて訪れた教会では、宣教師の先生のお話はよくわからなかったのですが、そこにあるこの世にはない不思議なきよい雰囲気になんともいえないすがすがしいものを感じたのでした。それは聖なる雰囲気というのでしょうか。それは教会の交わりは、天の都エルサレムの前味であり、予告編だからです。むろん今ある地上の教会はまことに不完全なものにすぎませんが、それでも聖霊が臨在し、父なる神と御子がご臨在くださっているので、来るべき天の都をほのかに指し示すものです。来るべき御国では、私たちはそれを完全なものとして経験するのです。
 死とはまことの神様と断絶状態にあることを意味しており、命・救いとはまことの神様とともにいることです。私たちは、この世にあってイエス様を信じ受け入れたときに、神様から断絶した人生から救い出されて、神様とともに生きるいのちに満ちた意義深く喜びのある人生を与えられました。けれども、今の世にあるかぎりはそれは不完全なもので、時折私たちは神様の御顔を見失ってしまうこともあり、罪を犯してしまうこともあります。けれども、主が来られて、私たちを新しい天と新しい地、神の都に入れてくださるならば、私たちはもう渇くこと、むなしくなることはありません。いつも喜びと感謝と讃美と平安に満ちた生活をすることができます。
 天の御国とは、神が親しくともに住まわれる住まいなのです。

2.完成した御国のすばらしさ

 完成した御国という環境の素晴らしさは、さらに、次のように表現されています。「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」いのちの水の川の両岸には、いのちの木が美しい緑の並木をなしています。みなさん、目に思い浮かぶでしょうか。ふつう木というものは年に一度一種類の実を実らせるものですが、いのちの木はそうでなく毎月、十二種類の実をならせるのです。さらに、その木の葉には薬効があって諸国の民をいやすというのです。このように豊かな慰めと喜びに満ちた世界、それが天の御国です。
 いのちの木は、かつてエデンの園にありましたが、それは一本だけでした。けれども、新しい神の都では並木をなしています。新しい神の都は単なるエデンの園の回復ではありません。かつてエデンの園が目指していたゴールとしての究極の神の国の完成した姿なのです。救いがただ単にエデンの園への回復にすぎないならば、また誰かが善悪の知識の木から取って食べて、振り出しに戻ってしまうに違いありません。神様が用意していてくださる御国は、そんなものではないのです。それは永遠の完璧な朽ちることのない祝福です。

 また、3節を見ると、完成した御国について、「 もはや、のろわれるものは何もない。」とあります。アダムとエバが禁断の木の実を食べたのち、被造物世界に呪いが入りました。3:17 また、人に仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:17−19)
大地を耕し守ることが人間の本来の務めでしたが、大地つまり自然界は人間に敵対するようになりました。大地はいばらとあざみがはびこって、人間の労働に敵対するようになりました。動物たちも牙をむいて人間に襲いかかるようになりました。微生物のなかにも呪われた微生物は病原菌となって人間と動物たちを苦しめるようになりました。被造物世界は確かに本来神の作品ですからすばらしいものなのですが、同時に、そこには呪いが入り込んでいるのです。
こののろわれた自然に対して人間は文明の力をもって、何とかして自然を支配しようとし、近現代になると科学文明の力によってこれを破壊するようになりました。文化命令は神様さまが人間にくださった祝福ですが、人間は文明によって被造物世界を汚し破壊しつつあります。労働は本来神様が人間にくださった喜ばしい任務ですが、そこには呪いが加わったので、労働が人を苦しめるという面があります。人は労働に喜びを見出しながら、もう一方で労働によって体を壊したり、時には生命を落としたりしてしまいます。けれども、新しい天の御国においては、こうしたのろいはすべて取り去られ、本来の祝福のみとなるのです。

3.完成した御国の住民たち

 では、第三に完成した御国の住民たちはどのような人々であり、どのように生きているのでしょうか。22章3−5節
「神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」

(1)「神の御顔を仰ぎ見る」
神のしもべたちは「神の御顔を仰ぎ見る」と書かれています。神の御顔を見るというのは、人間にとって至福の状態を意味しています。アダムとエバは罪を犯したとき、「神の御顔を避け」て、園の木陰に実を隠したと創世記3章にあります。あのときから、人は神様の顔をまともに見ることができなくなってしまいました。旧約聖書を見れば、神の顔を見ると人は死なねばならないという記事がいくつも出てきます。神の御顔を見た人は、「自分はもうだめだ、死んでしまう」と恐怖におののいて叫んでいます。
エス様は「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るから。」と祝福してくださいました。人が神様の御顔を見ることができないのは、心が穢れているからです。また、パウロはイエス様を信じる私たちは今は、古代の銅の鏡に映すようにぼんやりと神の御顔を見ているけれども、完成した天の御国に入るときには、神様はイエス様の血潮によってすっかり心のけがれを取り除いてくださいますから、神のしもべとして神の御顔をはっきりと仰ぎ見ることができるのです。そして、それこそ最大の喜びなのです。

 神のしもべたちの額には、神の名が記されています。私たちは自分の所有物に名前を書いたりするでしょう。神の民の額に神の名が記されているのは、このしもべは神のものであるというしるしです。神様は、「おまえはわたしのものだ、わたしは決してあなたを捨てはしないよ」とおっしゃってくださるのですね。なんと安心で、喜ばしいことでしょうか。
 私たちがこの世界に置かれた教会で、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けたというのは、そういう意味です。私たちは聖三位一体の神の所有とされているのです。なんとありがたいことでしょうか、また、なんと力づけられ安心なことでしょうか。

(2)神のしもべにして永遠の王
 新しい都エルサレムでは、園の中央に神の小羊の王座があります。神の民は、そこで神のしもべとして神にお仕えするのです。しかし、同時に、5節では「彼らは永遠に王である」と言われています。「神のしもべにして、永遠の王である」というのか、神の国の民なのです。
 神のしもべであるということは、神のご意思のままに、自分の栄光のためではなくひたすら神の栄光をあらわすために生きるということです。他方、王であるということは、尊厳があり自主的・自律的であるということです。一見、二つのことは矛盾するように思えます。しかし、改革者ルターは『キリスト者の自由』という本で次のように言いました。
キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属しない。
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」
 キリスト者は恐怖にあるいは律法に縛られ、あるいは脅されたりしない自由な王なのです。ですが、キリスト者は、愛のゆえに自らの権利を進んで制限して奉仕するものなのです。地上にあって、私たちは完全には自我の病から解放されていないので、人に奉仕するよりも、人に奉仕されたいと思ってしまうものです。けれども、自我の病つまり罪から解放されるときに、私たちは自由な王として喜ばしく神に仕え、互いに仕える喜びを知ることになります。
 人は造り主を見失うと、傲慢になって自律しているつもりでありながら、実際には、何かまことの神ではない被造物の奴隷となっています。究極のところ、人は偶像の奴隷であるか、神のしもべであるかのどちらかしかないのです。宗教改革者は言いました。「神に仕えることこそ真の自由だ。serivire deo vera libertas est.」主イエス様が、仕えられるためではなく仕えるために来られ、そのいのちを十字架の上で私たちの贖いの代価としてお与えになるために来られた、あの仕えるすがたを模範として、私たちは御国で神に仕え互いに仕えることを喜びとするのです。仕えられるよりも、仕えることを喜ぶ自由な王たちとなるのです。
 地獄では、その住民たちは、相変わらず俺が偉い、いや俺のほうが偉いといばりあってぶつかり合っているでしょう。お前が俺に仕えろ、とんでもない、お前こそ俺に仕えろと、いがみあっています。この世には、そういう人と人との争いが満ちています。国と国、人と人、夫婦、親子などみなそういう自己中心的な者どうしの争いに満ちています。
 しかし、天の御国では、むしろ仕えられるより仕える者が偉いのです。そして、天的な喜びに満ちているのは、そういう人々なのです。

結び
 父と子と聖霊の満ち満ちている天の御国。天の御国は神のきよい愛と正義が満ちたところです。豊かな主よ、来てください。マラナ・タ!という祈りをもって、御国に住まう民としてふさわしい者として成長し、成熟してゆくことを望みつつ、神と人とに仕えることを喜んで精進してまいりましょう。