苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

川上村の家庭集会


 

主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
  それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
  ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(ヨハネ福音書4章3−7節)


 昨晩は、家内といっしょに川上村で家庭集会に出かけました。前々から祈っていたある方も参加してくださって、うれしい集いとなりました。川上村はわが国のレタス発祥の地であり、今日でも全国のシェアの多くを占めています。今の時期、川上のレタスは四国や九州まで運ばれているそうで、新鮮な野菜を届けるために、農家は午前一時とか午前二時に投光機をつけて出荷作業をしています。土曜が出荷のお休みとあって、その前夜はひさしぶりに一息つくことができるということで、Kさんのうちに集いました。
 開かれたみことばは、ヨハネ福音書第四章、主イエスがサマリヤの女に井戸のかたわらで出会った箇所です。
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「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」なぜ主イエスはサマリヤを通って行かねばならなかったのだろう?それは、このむなしい人生を歩んできたひとりのサマリヤの女に会い、永遠のいのち、すなわち神とともにある喜びある人生を与えるためだった。
 彼女は、自分を愛してくれる男をさがしては満足できずに別れ、また、この男ならと思っていっしょになったけれど、また満足行かずに別れ・・・ということを繰り返し五回の結婚をしては失敗し、今は六人目と同棲しているという不身持な女だった。男に愛を求めては得られずに失望するということを彼女は繰り返してきた。彼女は愛に渇いていた。
 そんな彼女に主イエスは言われた。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」
 主イエスは続けられた。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 主イエスに出会い、永遠のいのちへの水、つまり、聖霊を受けるとき、人は、<人に求めては渇く>という生き方から、むしろ<人に与えれば与えるほど豊かになる>という生き方に変えられる。「受けるより、与えるほうが幸いである。」
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 聖書を読んでから、それぞれに感じたところを分かち合いました。いくつか感想を拾うと、Rさんは「イエス様は、この私のところにも『来なければならない』とされて来てくださったのだと思うと、ほんとうに不思議だ」とのこと。 Kさんは、「置かれた状況はちがうけれどかつて自分もサマリヤの女と同じように、家族に求める生き方をしてきて、今、ここに来て、イエス様に生かされるということがほんとうにわかって平安のうちに生きられるようになった」と話された。またFさんは、「これまで与えられてきたから、残された人生、与える生き方をして行きたい」と。初めて集われた方も、大病を得てそこから学んだことをお分かちくださいました。それぞれの感想が、具体的な生活から出てきたことで、聞きながら話しながら笑ったり涙ぐんだりしました。
 そうして、おいしいものが出てきました。ほくほくに煮られた花豆、わらび、ラディッシュのおひたし、カステラ、それから・・・。楽しい集いでした。終わればもう夜十時近く。今回は集うことのできなかったMさん、Tさんのことも祈りにおぼえて、車中、妻と「たのしかったねえ」と話しながら帰ってきました。

    散歩道の丹精されたバラ