苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イスラエルの王国時代と現代日本と


 フェイスブックで、こんなリストが回ってきた。多くの名はすでにこの世にいない人々の名であるが、原発業界とマスメディアの癒着を知るには十分である。どおりで、原発にかんする正確な情報に国民は触れることがむずかしいわけである。
 本来的には、ジャーナリズムは民主制における国民の目である。その目でもって国民は政官財という権力を監視する。だが政官財はなんとかして、自分たちについてよいことをPRするために、ジャーナリズムを自分の影響下に置こうとする。官僚は記者クラブ制度をもちいてマスメディアを飼いならし、勝手なことは報道させないまいとし、大新聞・大TV局はその特権にしがみつく。また、原発業界は、マスメディアの社長や編集者や解説委員を、理事や会長に迎え、あるいはマスメディアの大口スポンサーになることによって、原発に批判的報道がされないようにコントロールする。

 こういうありさまを見ていると、多くのクリスチャンたちは旧約聖書の王国時代の預言者と偽預言者のことを連想してしまうだろう。イスラエルの王国時代、神殿運営に携わるのは祭司階級であった。本来的には、王は自ら謙虚に神のことばに学び、しもべの心をもって民を統治する任務を与えられていた。

「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」申命記17:18-20

 また、祭司は、王が高ぶることなくその統治をなすようにとりなし祈り、また、ときには王に助言したり叱責する任務があった。けれども、神殿礼拝の維持運営のためには相当の財力が必要であり、王はこれを支える立場にあった。となると、えてして祭司たちは王に直言する力を失いがちであった。
 そうした状況下、神は預言者と呼ばれる人々を起こされた。彼らは、基本的に無位無官で権力から独立した立場から、王と国民に向かって神のことばを告げた。そのことばの多くは、王とその取り巻きにとって厳しいことばであった。「悔い改めよ。さもなくば滅びる。」と。預言者たちは権力に憎まれ、命を落としていった。
 だが、同じ時代偽預言者もいた。彼らは神が遣わした預言者ではなく、自称預言者にすぎず、権力者と癒着して権力に都合がよいことを語った。「平安だ。平安だ。」そして、彼らの偽りの預言は王国を滅ぼしたのである。


  ジャーナリズムが政官財に買収されて、国民に目隠しをしてしまうとしたら、民主制は機能しなくなってしまう。聖書との類比から考えてみると、この国が滅びないめに必要なことのひとつは、記者クラブ制度を廃止し、大新聞・TV局の重い立場の人々が、業界の理事や会長を兼職することを禁止する必要があると思えてくる。