広島福山の水草さんに電話で、家紋を問い合わせてみた。果たして、「丸に立ち沢潟(おもだか)」だろうか?
答えは、NO!丸に角字松ということで、こんな紋である。
・・・というわけで、どうも尾張水草家と広島福山水草のつながりはないのではないかな。やっぱりため池に生えていた水草を見て、水草と名乗ったのではないかなあ。ただ、天保年間のころに「水草信治郎」その息子が安政三年生まれで「水草保太郎」だそうだから、名字は江戸時代からあったらしい。なにか寄付かなんかして、ご褒美に名字帯刀許されたとかいうたぐいだろうか?う〜んわからん。<追記> 今しがた、名古屋の水草さんから、家紋というのは、戦のときなどに変えてしまったりするものなんだと教わった。だから家紋がちがうからつながりが無いというのは早計なのだそうである。江戸水草は、広島福山水草と似た家紋だとか。だとすると、まだつながっている可能性はある。