苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

信州安曇野と九州志賀島


 


連休に、教会の兄弟姉妹と安曇野の大王わさび農園に出かけてから、安曇族のことが気になっている。特に、大陸族(ヤマト族)と勇戦して破れて亡骸はバラバラにされて、あちこちに埋められたという八面大王の悲劇が印象に残ってしまったからだろう。それは紀元800年頃の、ヤマト王権の東方遠征の時代のことである。

 安曇族というのは、それより前に、この信州の地に移住してきた一族であり、彼らはもともと九州志賀島を根拠地とした海洋民族である。だから、安曇野穂高神社で祭りのときに用いる山車は大きな船の形をしている。この神社に祭られるのは安曇比羅夫であり、彼は百済を唐が攻撃した白村江の戦いに援軍の将軍として赴き、戦死している(663年)。筆者の母方の祖父は博多の唐人町というところで眼科医を営んでいたので、子どもの頃、母の実家に行った際に博多から玄界灘に突き出した志賀島にも出かけたことがある。

 この志賀島は、たしか中学と高校の日本史で習った記憶があるが、「漢委奴國王」の印が発見された場所なのだ。これはAD57年に後漢光武帝から授かったものとされる。安曇族というのは5世紀に中国大陸の呉から移住してきたとも言われる。5世紀といえばヤマト王権ができつつあった時代で、この時期、中国大陸や朝鮮半島から、さまざまな部族がこの列島に移住してきて、あちこちにクニが出来つつあって、ヤマト王権のそのひとつだった。安曇族と奴国王を結びつける説もあるようだが、もし5世紀に渡来した呉人が安曇族だとすると、時代が相当へだたっているので、果たしてどうなのかわからない。ただ奴国が単に九州志賀島の一部族にすぎなかったとすれば、光武帝が彼らに金印を授けたのは不思議である。

 それはともかく、安曇族はなぜ福岡志賀島を離れ、はるばる信州まで移住することになったのだろうか。坂本博氏は磐井の乱(西暦527年)で敗北した磐井側についたために逃亡したことが始まりだと推測するが、上記の白村江の戦いで当主安曇比羅夫が戦死したことと関係しているのでは、と推測するむきもある。坂本氏によれば、安曇族は恐らくもともと交易関係があった糸魚川のエミシを頼り同地に上陸し、その後、川をさかのぼって内陸部へ移動し、長野県中部の荒地に居住したのであろう、とのこと。ここで安曇族は繁栄し、天平時代(西暦784年)には安曇族が郡司となっているという記録が残っている。しかし、それも長くは続かず、ライバルの仁科氏の策謀で郡司からは追い落とされ、仁科氏に引き込まれたヤマト朝廷軍によって滅ぼされてしまったそうである(794年)。これが八面大王の昔話になっている。

 いずれにしても、九州の海洋民族である安曇族の子孫たちが、信州の山奥にまで移住してきているのはなんとも不思議である。

 海洋民族である安曇族の足跡は日本のあちこちに、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として山形県静岡県にまで残されている。その一つ、近江聖人中江藤樹の地、安曇川(あどがわ)もその一つである。十年数年前に近江聖人の遺跡を訪ねて安曇川に出かけたことがあるが、琵琶湖に臨む安曇川は水の豊かな地で、町の中に水路がはりめぐらされ美しい水が流れていた。信州安曇野と共通するのは、水が豊かな地であるという点である。安曇川安曇野も、おそらくは先住民たちが住もうとしなかった湿地帯であったのを、移住してきた安曇族には治水の技術があったので、上手にこれを活かしてわが故郷としていったのであろう。安曇族は、たとえ山奥に移り住むことになっても、水を愛し、水を旅し、水を治める海洋民族なのであった。
  穂高神社の舟形の山車のぶつけ合い

*日本人は全員渡来人http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090603/1243981281