苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

選び

          ローマ8:28−30
          2012年5月13日 小海キリスト主日礼拝


   (今年のペンテコステ・リース
    →ユトリエさんhttp://yutorie.exblog.jp/i0/

序 救いの順序
 私どもは、神様が御子キリストにあってご用意くださった救いについて学んでまいりました。キリストにあって神の前に義と宣言され、神様の子どもとしていただきました。そして、現在は、聖霊に助けられながら、鏡のようにキリストに似た者へと変えられていくことができるという望みを私たちはいただいて歩んでいます。
 このように救いの教理を学んできた締めくくりとして、私たちは今日、神様による選び予定ということを学ぼうとしています。なぜかというと、ローマ人への手紙においても、救いの教理を1章から8章にかけて教えてきたパウロが、その締めくくりとして、予定について教えているからです。
まず、30節をごらんください。「8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
まず、30節の言葉で整理すると、神様による救いの順序は、<あらかじめ定め(予定)→召し→義と認め→栄光を与える>ということになります。
予定とは、神様が天地のもといの定められる前に、私たちをキリストに属する者としてお選びになったということです。
召しというのは、神様が私たちを聖霊様とみことばの宣教によって、私たちを救いへと招いてくださったということです。ある日、どこかで誰かから聖書の話を聞いて、聖霊様が私たちのうちに働かれたとき、「ああ、イエス様がわたしを呼んでいる」と気づいて悔い改めた、そのとき神様の召しがあったわけです。
義と認めるというのは、自分の罪を認めてイエス様が私の罪の身代わりとなって死んでくださったことを信じた瞬間に、神様がキリストに免じて、あなたを義であるとみなしますと宣言してくださったことです。
このとき、ほぼ同時に、神様は私たちをご自分の子として受け入れて、御子の御霊を与えてくださいましたから、私たちは神様を愛するようになり、同じくキリストを信じて歩んでいる人たちを兄弟姉妹として愛する心が与えられました。
最後に、「栄光を与える」とは、先週まなんだ聖化を意味しています。私たち、イエス様を信じている者は鏡のように、イエス様の栄光を反映させながら、イエス様に似た性質を持つ者へとだんだんと変えられていくのです。それが完成するのは、イエス様のみもとに行くときです。
予定、召し、宣義、子とされ、キリストの栄光が与えられていく。これが神様が私たちのために与えてくださった救いの順序です。すでに私たちは、義とされ、子とされ、聖とされることについては学んで参りました。今日は、予定について学びます。予定というのは「選び」とも表現されます。神様が、私たちを世の始まる前に、キリストのうちに選んでいてくださったという意味で、選びといいます。

 パウロはローマ人への手紙の救いに関する教えを語ってきて、その最後になってから、ようやくこの予定・選びの教理を教えています。救いの順序として言うならば、最初に予定・計画から話したほうがわかりよさそうです。それなのに、あえてそうしなかったのはなぜでしょうか。それは、予定の教理というものが正しく理解し、信じ、受け止めるのが、少々むずかしい教えであるからです。古代教会の時代から、予定の教理については、それは真理であるけれども、注意深く教えなければならないし、注意深く受け止めなければならないとされてきました。
 間違えて予定の教理を受け止めると、「どうせ救われる人は選ばれているのだから、伝道などしなくてもよい」とか、「どうせ私は選ばれているから、クリスチャンとして敬虔な生活などする必要はない」と誤解して怠慢の口実としたり、「私は神様に選ばれているのだから、ものすごく立派な人間なのだ」と傲慢になったりするからです。
 予定の教理を学ぶばあいは、ほかの教理のばあいもそうなのですが、格別、聖書の前後の文脈をわきまえて、どういう目的でこの教理があきらかにされたのかということを注意深く学ぶべきです。もし、そのように学ぶならば、予定の教理は、弱っている信仰者を慰め力づけ、確信をもって福音宣教へと励ますことになるのです。

1 予定とキリスト

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 神様が世の始まる前に私たちをお選びになったことをパウロは「御子のかたちと同じ姿に定めた」と表現しています。神様は最初にアダムを造られたとき、「神のかたちにしたがって」人を創造なさったと創世記1章に記されています。そして、そこでいう「神のかたち」とは御子のことであるとコロサイ書1章15節には記されています。つまり、神様は、御子キリストを模範というか原型として、人間をお造りになったというのです。とはいえ、その時は完成していたのではなく、人は御子キリストを目指して、その完成を目指して造られたのです。しかし、人は神様に背いてしまい、惨めな姿になってしまいました。もともとは神を愛し隣人を愛して生きることを喜ぶ者として成長していくべきだったのに、本来の姿から転落して、神様に感謝もせず、利己的で自己中心になってしまいました。
であるからこそ、私たち人間が真の神様に背を向けて、生きる目的を見失って、罪のなかをさまようことになったとき、神様は御子を人としてこの世にお遣わしくださって救い主としてくださったのです。御子は、もともとご自分に似た者であるべき私たち人間が、ひどい状態に陥ってしまったので、本来の自分を取り戻し、ふたたびもともとの目的である、キリストの姿を目指して生きることができるようにと助けに来てくださったのです。

 このことからもわかるように選びというのは、キリストのうちに選ばれることであって、キリストを離れてはありえないことです。エペソ書も1章で「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と記しています。
 私たちに何か取柄があるからではなく、キリストに取柄があるのです。神様は、私たちをキリストに属する者として、私たちを特別な愛の対象としてくださるのです。ですから、私たちには自分が選ばれたからと誇る理由はなくて、ただ、謙虚に神様の恵みに感謝することこそふさわしいのです。
神の選び、予定ということを誤解して、妙な選民意識をもつとしたら、まったく的外れもよいところです。バプテスマのヨハネは、自分たちがアブラハムの子孫であり選民であると誇っているユダヤ人たちに警告しました。「神は、この石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるのです。悔い改めの実を結びなさい。」と。
 私たちは何も自分には誇るべきことはないけれど、神様のただ一方的な恵みによってこそ選ばれたのだという事実をかみしめて、ただ神様の恵みを感謝しましょう。

2 予定と教会

次に「それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ということばの意味です。それは、神様は、私たちキリスト者を選んでばらばらにしておくわけではなくて、御子を長子とする「神の家族」つまり教会を造ることを計画なさったのだということです。
 聖書において、神様が計画なさった救いは、最初から家族的というか共同体的なものです。神様はノアに箱舟を作るように命じたとき、彼だけでなく彼の妻と息子たち家族にもこの箱舟にはいるようにと命じ、さらに動物たちも救うことになさいました。アブラハムの時にも、彼個人ではなく彼の一族をお選びになりました。ソドムが滅ぼされそうになったときも、神様はロトだけでなく、彼の妻と娘たちとその婿たちにもチャンスをお与えになりました。やがて、アブラハムの子孫はイスラエルの民となり、王国を建設することになってゆきます。あの時代には、イスラエルの民とその王国が教会でした。
 新約時代になって、神の民、教会は、民族の枠を超えていくことになりました。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、神の家族が形成されていくことになりました。神様は、世界中にキリストの民が、それぞれの地域において礼拝共同体を形成して、互いに助け合って励ましあって、神様の福音をあかしして歩んでいくことをよしとなさっているのです。
 ある人たちは、「信仰は私と神様との一対一の関係です」というでしょう。たしかに自らの罪を悔い改めるというようなとき、ひとり神様の前に立つという意識はたいせつです。信仰にはそういう側面があることは事実です。家族だからといって、他の誰かが代わりに信じてくれたから自分もついでに救われるということはありません。けれども、聖書的な信仰というのは、共同体的な信仰なのです。それは、神ご自身が父と子と聖霊という愛の共同体でいらっしゃることに起源をもっています。「目に見える主にある兄弟姉妹を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」
 その神の家族、兄弟姉妹の長子が御子イエス・キリストなのです。

3 予定と伝道

 神様は救いへの召しを行なう機関として教会をお用いになります。教会は伝道をすることによって、召しの働きをするわけです。そして、神様が、ある人たちをキリストのうちに選んでおられるということを知ることは、私たちが確信をもって福音を伝えて行くことの保証となります。
先日、兄弟姉妹たちと開拓伝道をしている塩尻聖書教会を訪問しました。みんなで広田先生ご夫妻をお交わりをしたのですが、会堂の正面に墨で書かれた一つのみことばがぶら下げられていました。使徒18章10節です。「この町には、わたしの民がたくさんいる。」ああ、この約束に基づいて広田先生たちも、この塩尻の地にキリストの福音の種を蒔き続けていらっしゃるのだとわかりました。パウロがコリントの町を訪れ伝道したとき、コリントではユダヤ教会からの激しい攻撃・弾圧が起こりました。パウロはおそれを抱いたのです。そのとき、主がパウロに現れてくださっておっしゃいました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と。
 イエス様はヨハネ福音書のなかで、御自分を羊飼いにたとえておっしゃっています。「10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。 10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
 イエス様の羊はイエス様の声を知っているのです。ですから、イエス様の声で呼ばれるときには、イエス様の羊はちゃんとイエス様についてきます。イエス様の声とはなんでしょうか。それは、純正な聖書的なキリストの福音のことです。ですから、伝道者として教会としてとても大事なことは、たくされた地域の人々のところに、わかるように聞こえるように、純正なキリストの福音を届けることです。そうすれば、キリストの羊はちゃんとそれを聞き取って、キリストのもとに出てきます。もしキリストの福音ではない、別の声で呼ぶならば、キリストの羊ではない、猫とか犬とかやぎやライオンが出てきて、教会は羊の群れでなく動物園になってしまいます。
 つまり、この地域にももともと神様が選んでいらっしゃる、キリストの羊がいるということです。この約束があるからこそ、私たちは確信をもって忍耐強く伝道しつづけることができます。予定の教理は、確信と忍耐ある伝道の秘訣です。

6 予定と救いの確信

 最後に、予定の事実は救いの確信を与えることについて。
「8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」
 私たちの信仰生活には、悪魔の攻撃もあれば、この世の神を知らぬ人々からの非難や妨害もありますし、この世の魅力的なものによる誘惑もあるでしょう、また、私たち自身の肉の弱さもあります。肉体の弱さもあれば、気持ちがなえることもありましょう。そういう試みのなかで、私たちはいったい自分はこのイエス様への信仰を守り抜いて、天の御国にまで凱旋できるだろうかと不安になることがあるかもしれません。
 使徒パウロも、実に、激しい試練のなかを通された伝道の生涯でした。いのちの危険を感じたことも一度や二度ではありませんでした。そんなパウロを支えたことの一つは、私が神を選んだのではなく、神が私を選んでくださったのだということでした。永遠の昔、世界のもといが定められる前に、神様が私を御子キリストのうちに選んでくださったのだから、大丈夫だという確信でした。
 選びの教理というのは、このようにして、試みのなかで私たちが揺るがされそうになるとき、私たちを慰め励まし支えるものなのです。もしかすると、あなたも揺るがされているかもしれません。もしそうであれば、あなたが神を慕い、あなたがキリストを信じるようになったのは、あなたがキリストを選んだからでなく、キリストがあなたを選んだからであるという点に立ち返りましょう。平安がもどってきます。いえ、不安なままでもいいのです。主があなたを選んでおられるからです。

むすび
 以上、私たちは予定(選び)の教理について、みことばを味わってきました。世の始まる前、神様はめぐみのゆえに、キリストの家族となるようにと私たちを選んでくださいました。ですから、私たちは揺るぐことなく、キリストへの信仰をまっとうすることができます。また、確信と忍耐をもって、この地の方たちにキリストの御声である福音でもって招きつづけてまいりましょう。キリストの羊は、その声を聞いて出てきます。