苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

家庭集会・・・主の再臨のたとえ

 昨晩は川上村で家庭集会でした。もう農繁期なので、家庭集会は夜7時半からです。妻といっしょに車で出かけて、30分。
 マタイ伝24末から25章のイエス様の再臨にかんする、いくつものたとえを学びました。
 

24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。

 主人はイエス様、その家とは教会、その家のしもべたちとは信徒たち、彼らにちゃんとみことばの食事を与えることを期待されているのは牧師です。イエス様はまだまだ帰って来ないだろうとたかをくくっていい加減な説教をして、遊びほうけているところにイエス様が戻ってこられたら、どうする・・・とまず、牧師自身にパンチ一発の箇所でした。

二番目は、花婿を迎える賢い5人の侍女と愚かな5人の侍女。 花婿はイエス様で、侍女たちは私たち。

  25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

 この油は、足りないからといって人から分けてもらうわけにはゆかない油だというのが注目点です。この油はイエス様に対する「信仰」でしょう。キリスト教信仰は共同体的信仰ですが、どんなに親しい兄弟姉妹でも、親子でも夫婦でも分けてもらうことのできないものがある。それは信仰。イエス様がもどってきたときに、「あなたの」信仰が問われる。

 三番目は、タラントのたとえ。旅に出かけて戻ってくる主人はイエス様のことで、しもべたちは私たちです。

  25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 主人がやがて戻ってくると、5タラントのしもべ、2タラントのしもべは託されたタラントをこんなふうに活用しましたと報告して、その忠実さを主人に喜ばれます。そして、主人から信頼されて、今度はもっとたくさんのものを託されて、さらに主人のために喜んで働きます。
 ですが1タラントのしもべは、1タラントでは足らんと思ったんでしょうか。彼は活用しようとして無くすことを恐れて、土に埋めておいて、主人が帰って来たらそのまま返して、主人からその怠慢を叱られてしまいます。
 今の世での歩みは、御国における本番のための予行演習。予行演習ですから、失敗を恐れず大胆にのびのびとやりましょう。でも、予行演習ですからいい加減でなく忠実にやりましょう。

 そして最後、4つ目は王が戻ってきてヤギと羊に分けられる話。王はイエス様、ヤギと羊はキリスト者たち。主の再臨の話はどれもこれも、ドキッするもの、こころさぐられるものばかりですが、この四つ目は何度読んでも特にそうですね。

  25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
  25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
  25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
  25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 エルサレム教会に信仰のゆえに官憲からの弾圧が及ぶと、キリスト者たちは着の身着のままで他の地方へと逃げてゆきました。こうして逃げてきた主にある兄弟姉妹「最も小さい者たち」をどのように迎えるかによって、信徒たちは羊とやぎとは分けられたのでした。ある人々は、彼らを拒否して自分がヤギであることを露わにし、ある人々は彼らを受け入れて親切にして自分が羊であることを、あらわしたのでした。
 ここを読むたび思い出すのは、辻宣道牧師の少年時代の青森でのつらすぎる思い出です。ホーリネス教会弾圧の嵐が吹き荒れたあの時代、宣道少年のおとうさんは特高警察に逮捕され教会は閉鎖されました。食べるものも尽きて、母に言われて宣道少年は兄弟といっしょに、信徒の畑にかぼちゃをもらいに出かけました。弾圧のないときは元気で親切で教会でも盛んに活躍してくれた人の畑でした。ところが、その人は少年たちを口汚く罵って手ぶらで追い返したのでした。そのころ、困窮しているこの小さな家族を支えてくれたのは、貧しい在日朝鮮人の信徒だったそうです。貧しい者は幸いですね。金持ちが天国にはいるのは、らくだが針の穴を通るよりもむずかしい。
 どの木が常緑樹であり、どの木が落葉樹であるかは、暖かいときにはわからないのですが、木枯らしが吹くときが来るとわかる。・・・マタイ福音書24章の末から25章の、主の再臨に備える生き方を教えられたたとえはどれもこれも身につまされます。


 みことばを味わったあと、一人一人が祈りました。どの祈りも真実で痛切な悔い改めと感謝に満ちた祈りでした。
 その後は、タラの芽のてんぷらと、コゴミのおひたしと、蕗の煮物をいただきました。春の味でした。すべてが終わって、外に出ると、星が降るようでした。