苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の子とされた恵み

ガラテヤ3:23-4:7
2012年4月29日 小海主日礼拝


 父が計画し、御子が人となって十字架の死と復活によって用意してくださった祝福を御霊が私たち一人一人に適用してくださいます。その祝福のなかで代表的なことは三つです。一つ目は、宣義つまり、法的にキリストにあって義と宣言してくださったことです。二つ目は、キリストにあって神様の子としてくださったことです。三つ目は、キリストにあって聖化です。今日は二つ目のキリストにあって子としてくださることについてです。
 神様は、イエス様を信じる者を、御自分の子どもとしてくださいます。

1 旧約時代の救い・・・奴隷的だった

 まず、旧約時代における救いとはどういうものであったかということについてみことばに学んで見ましょう。3章23節、24節と4章1節から3節を見ましょう。
「3:23 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

「4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。 4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」

3章には旧約時代における聖徒たちは、律法という養育係りの監督の下に置かれて、閉じ込められていたとあります。また4章では、パウロは律法を後見人・管理人にたとえて、旧約時代の聖徒たちは、その監督下にあった奴隷のようなものだったと説明しています。つまり、律法との関係において、旧約の聖徒たちは奴隷のようだったというのです。もっと正確に言えば、奴隷ではないのですが、未熟であるがゆえに養育係りの監督下にあったので不自由な奴隷的な立場にあったというのです。
人間の罪深さは旧約聖書時代であれ、新約時代であれ同じですから、神様の前に支払わなければならない罪の代価も同じです。ですから、旧約の聖徒たちが神様の前に赦されたのも、それは私たちと同じようにキリストの十字架の死の代価なしにはありえないことでした。ただ旧約と新約のちがいを言えば、私たち新約の聖徒たちは、すでに来られてゴルゴタの丘で成し遂げられたイエス様の十字架の贖いの死を知っていて、イエス様を信じて罪を赦していただいていますが、旧約の聖徒たちは、未来に成就する贖いの約束においてキリストによる罪のあがないをいただいたということです。旧約の聖徒たちは、罪のあがないとして牛や羊といった動物のいけにえをささげましたが、それで罪がきよめられたわけではありません。それらはキリストの十字架の贖いを指差すところの影、予告編にすぎないものでした。
しかし、実際に、神の御子キリストが人となって地上に来られる前の時代には、神が人となってこられて身代わりに十字架で罪をあがなってくださるという恵みは、それほど明瞭ではありませんでした。また、たくさんの戒めをモーセを通じてイスラエルの民はいただき、戒めを守ることに必死になっていきました。旧約聖書には十戒に要約される道徳律法だけでなく、さまざまな儀式、またイスラエルの社会的な律法がたくさんありました。これらの律法はイスラエルの民にとって、厳しい監督者のような、恐ろしいものだったのです。この監督の下で、旧約の民は奴隷のようでした。奴隷というのは、主人の下にあって、よい働きをしなければクビにされてしまうのではないかという恐怖を抱きながら働きます。そのように、旧約の民の律法の下に置かれた生活は、ともすれば不自由で恐怖をともなうものだったのです。旧約時代の人々も恵みによって救われたのですが、そこには律法による縛りと恐怖がともなうものだったということです。

2 新約時代の救い・・・子としての救い
 
 では、私たち新約の時代における救いとはどういうことでしょうか?
(1) 信仰による義が明確になった
 一つは、信仰による義が明確にされたのです。
「3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」
 旧約の律法はただ人を束縛して、奴隷にして苦しめるためのものではありません。律法は養育係りです。律法をきまじめに守ろうとすればするほど、人は、自分がどれほど罪深く自力では決して救われようがないものだということを実感しないではいられません。そして、ただ神の恵みによって与えられた救い主キリストにすがるほかないことを悟るにいたるのです。
イスラエルの歴史を見てもそうです。彼らは、神から特別に選ばれて律法が与えられ、神のご加護のもとに、カナンの地にまことの神をあがめる祭司の王国を築いていくはずでした。けれども、その歴史を見るならば、イスラエルの民は、神様にそむき、たびたび偶像崇拝と不道徳に陥ってしまい、ついに紀元前6世紀前半には滅ぼされてしまったのでした。聖なる律法を与えられるという特権を受けながら、それにもかかわらず滅びていったイスラエルの歴史を見るならば、つくづく人間と言うのは罪深くて、自力では神様の前に自分を正しく保つことはできないのだということに気づきます。そうして、預言書には、来るべきメシヤ、キリストにかんすることが示されてゆきます。人間には希望がない。しかし、神が送ってくださるキリストがいらっしゃる、ということです。

 また、一人の救いにかんしても、律法は私たちをキリストに導く養育係りの役割を果たします。律法の要約である十戒の内容を確認してみましょう。出エジプト20章
第一戒 20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第二戒 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
第三  20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
第四  20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
第五  20:12 あなたの父と母を敬え。
第六  20:13 殺してはならない。
第七  20:14 姦淫してはならない。
第八  20:15 盗んではならない。
第九  20:16 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
第十  20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
 ガラテヤ書を書いたパウロという人物は、もともとパリサイ派の律法学者で、たいへんに真面目な人でした。彼はユダヤ教徒として律法にかんする義についていえば、誰からも後ろ指さされるようなことがないと自ら断言するほどに、律法を厳格に守っていました。けれども、彼は十戒の第十番目で自分の罪を認めざるを得なくなりました。1番目から9番目までの戒めは、外側に現れる行動を縛るものですが、これらをパウロはクリアしました。けれども、第十番目「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」という戒めを四六時中意識して守ろうとしたとき、パウロは自分のうちに不当な欲求が起きてくるのをおさえることができなかったのでした。必死で、隣人の妻を、財産を欲しがるまいとすればするほど、彼のうちにはむさぼりの思いがわきあがってきたのでした。
 パウロはこうして自分の原罪を悟り、ただ、神の恵みによってしか救われようのない自分を認めざるを得なくされました。このように、律法は彼をキリストの贖いを根拠とした恵みによる救いへと導いたのでした。

(2)さらに偉大な恵み・・・子とされた恵みの二つの面
しかし、子とされた恵みというのは、義と宣告されたという恵みよりも、さらに偉大な恵みです。義とされたという場合、神様と私たちの関係は、裁判官と被告人というまあ冷たい関係です。他方、子とされたという場合、神様と私たちの関係は親密な関係です。父と子の関係、親子の関係です。裁判官は被告人を個人的に特に愛するということはないでしょうが、父にとって子は特別に愛する対象となります。「恵みの上にさらに恵みを受けた」というほどの恵みが子とされた恵みです。
 神様の子とされたということには二つの側面があります。一つは、身分が孤児から養子縁組をしていただいたということです。「4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」と記されているとおりです。「子とする」というのは養子縁組をするという意味です。パウロは奴隷と子どものちがいということをローマ、ガラテヤの両書物のなかで記しています。奴隷というのは、なんといっても、その働きがよければ主人によって喜んでもらえる半面、その働きがなっていなければ主人から無用な者として追い出されるような立場でしょう。働きの如何がその評価のすべてです。だから、「再び恐怖に陥れる奴隷の霊」という表現がローマ書では取られています。あるときは「救われた」と喜んだのですが、イエス様のために自分は役に立っていないなあと思うと、「やっぱり、神様のために働きが足りないから、私は救われていないのではないか」という恐怖に陥るのです。
 けれども、「子とされた」ということはどういうことでしょうか。たしかに子が父の期待に応えて一生懸命に働くのはすばらしいことです。けれども、父は子を、そういう働き以前に、その存在そのものを喜ぶものです。何ができるとか何ができないとかいう働き以前に、そこに、ただわが子として存在していることが、父にとっての喜びなのです。
 ですから、神の子とされたという恵みには、旧約の奴隷的な聖徒のありかたに比べて、喜びと自由と神様に喜んで近づこうとう大胆さがあふれるわけです。

ところで、神の子とされたという祝福は、人間が誰か孤児を引き取って養子縁組をする場合とはちがうところがあります。それは、人間が孤児を引き取って法的に親子になったとしても、その子に自分のDNAを分けることはできませんが、神様が私たちを子としてくださる場合には実質的にキリストの御霊による新生がともなっているのです。それが6節に記されています。単に、法的に身分が神の子どもとされたというだけではなくて、実質的に心が神様の子どもにふさわしいキリストの御霊が宿ってくださったのです。だから、イエス様が父なる神様を慕い、愛するように、従うように、イエス様を信じる私たちの心の中にも神様に対する慕わしさ、愛というものが生まれるのです。
「4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
 それは、旧約時代にあっては、神のみこころの表現である律法は石に刻まれていたけれども、新約時代にあってそれが心に記されたと言い換えることもできます(2コリント3章)。律法が人の外にあり石に刻まれているものであるならば、それに束縛され、閉じ込められるということになりました。しかし、その神様の御霊によって神様の戒めが心に刻まれると、人は自ら進んで神様の御心を喜ぶものとなったのです。キリストを信じて、神の子として生まれた人は、神様の喜ばれることをするときに、自由を感じて喜びに満ちるのです。

結び
 以上のように、神の子とされたという恵みは、新約における偉大でユニークな恵みなのです。私たちクリスチャンは、奴隷のように縛られていやいや神さまにしたがおうというのではありません。子どもとして、神様の愛に感動して、自ら進んで、神様を愛し、神様のみこころにしたがおうとするのです。
 なぜなら、神様は、私たちを愛して御子イエス様を与えてくださり、また私たちの存在そのものを、喜んでいてくださるからです。