苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「荊冠のキリスト」理解の不十分さ

「キリストの仲保者としての働きを、預言者、祭司、王という三つの職務概念でとらえるという構想はカルヴァンが『綱要』で、初めて使った手法であ 」ると岡田稔師は言っている。ルター派神学では、祭司・王の二職とされ、祭司職のなかに預言職も含めてしまう。
 だが、カルヴァンは三職論をあまり展開してはいない。キリストはこの三つの職務を、それぞれ低い状態と高い状態において果たされる。カルヴァンにおいては、低い状態の王、すなわち荊冠の王としてのキリストの把握が欠けているように見える。『キリスト教綱要』第二編第15章に、キリストの三つの務めが取り上げられており、3節から5節でキリストの王職について論じられるが、ここには受難する王について書かれていない。

その影響なのかどうかわからないが、改革派神学ではキリストの低い状態における王職に関する理解が今日まで十分になされてきたのか疑問がある。たとえば、ウェストミンスター小教理問答には次のように書かれているのみである。

ウェストミンスター小教理問答26(つのぶえ社)
問い キリストは、どのようにして王の職務を果たされるか。
答え キリストは、私たちをご自身に従わせ、私たちを治め、守り、また、彼と私たちのすべての敵を抑制し、征服することによって、王の職務を果たされる。

 そして、これから先は、単なる感想にすぎないけれど、この荊冠の王にかんする理解の欠けが改革派教会が好戦的な性質をもつ一因となり、米英の近代史において教会が平和を作ることに失敗してきた理由の一つがあったのではないか、などというふうに思ったりするのである。