苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

バビロンでのダニエルの生き方(灰色問題その2)

 宗教改革の神学に学ぶということは大切なことである。だが、宗教改革の時代の教会の置かれた社会状況と、今日、日本の教会の置かれている社会状況とはあまりにも大きく隔たっている。宗教改革の時代、ヨーロッパ世界はコンスタンティヌス帝以来の「キリスト教世界」であり、そのうち何パーセントが再生したキリスト者であったかはわからないが、ともかく社会は圧倒的多数のキリスト者から成っていた。現代日本キリスト教会の置かれた状況とはまるで違う。田舎で伝道していると、それをさらに強く感じる。
 筆者がしばしば思うのは、現代日本の教会が置かれた社会とよく似ているのは、新約聖書で言えば、使徒たちが伝道し教会形成をしていったギリシャ文化世界であり、旧約聖書でいえばダニエルたちが経験したバビロンの世界である。どちらも八百万の神々の宗教世界だ。そういう意味では、私たちはここに学ぶべきことがもっとあると思う。
 たとえば、ダニエル書ではえてして「たとえそうでなくても・・・」と言って、権力者が要求した偶像崇拝を敢然と拒否した信仰の勇者としてのダニエルと友人たちが取り上げられる。それはキリスト者として重要な覚悟であるが、よく読めばダニエル書が教えているのはそれだけではない。
 第一章を読むと、ダニエルと友人たちは、王からベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデネゴという、異教の神々の名にちなんだ名をつけられてしまったという記事がある。それは屈辱的で不本意なことであったことはまちがいないが、このことについては彼らは受忍限度と捉えたのであろう、あえて拒否していない。
 けれども、ダニエルたちは王が彼らに与えた肉のご馳走は口にしようとはしなかった。ベジタリアンだったわけではなく、いわゆる「偶像にささげられた肉」を食べることについて、彼らの良心は赤信号か黄色信号をともしたからだったと考えられる。その意味では、ダニエルはパウロがローマ書やコリント書でいう「(信仰の)弱い人」(ローマ14:2、1コリント8章)だったということになろう。どうもこの「(信仰の)弱い人」という翻訳には大きな問題を感じるのであるが、これは別の問題なので別の機会に書いてみたい。
 また第二章を見ると、王が夢の解き明かしを「バビロンの知者」たちに求めた記事があるが、ダニエルはこのとき「バビロンの知者」の一人としてみなされ、彼もその立場にある者として振舞っている。このことに気づいたとき、筆者は少し意外だった。というのは、ダニエルは聖書の神こそ唯一無二のお方であると信じているのだから、他の諸宗教関係者のサークルの中にワンオブゼムとして身を置くことを潔しとしないのではないかと思ったからである。だが、彼はそういう立場に身を置いていたらしい。置かされたということではあろうが、少なくともそれを拒みはしなかった。
 こうしてみると、ダニエルは明白な偶像崇拝ははっきりと拒否したが、異教臭のあるものはなにがなんでも黒だという態度ではなく、「灰色問題」については、神の前における良心によって場面場面で微妙な判断をしていることに気づく。事象をていねいに観察して、異教世界あるいは無神論世界におけるキリスト者キリスト教会の生き方はどうあるべきなのかということを考えたい。


追記 同日>
 とはいえ、古代バビロンや古代ギリシャ文化世界と現代日本とでは、もちろん類似とともに相違点もある。相違の一つをあげれば、われわれの時代の日本では立憲主義ということで、憲法による基本的人権の保障があり、かつ、国民主権ということでわれわれの権利も責任も、古代の専制君主主義的な環境における庶民よりも、はるかに大きいということである。また、ウェストファリア条約後の近代国家の特徴の一つである政教分離原則ということは、宗教改革時代や古代世界とも異なっている。
 状況における類似点と相違点を見極めて、適切なありかたを考えるということになる。