苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日の丸・君が代と「偶像にささげられた肉」(灰色問題その1)

*日の丸・君が代問題を聖書に基づいて考えてみようと思います。この問題はきちんと扱わないと、教会は分断されるか、主に対して不忠実になるかというサタンの罠に陥る危険性があります。


 古代教会において「偶像にささげられた肉」を食べることは偶像崇拝にあたるか、あたらないかという議論があった。ギリシャ神話の神々を拝むこと,いけにえを捧げることは、仏像崇拝・神社参拝と同じく明白な偶像崇拝であった。だが、ゼウスやアポロンの神殿にいったんささげた肉を食べることは偶像崇拝にあたるか、あたらないか?これは微妙な問題だった。ある人はそうすることに良心の呵責を感じ、ある人は感じなかった。これを灰色問題と呼ぶことにする。ローマ14章から3つの原則が立てられよう。
1.灰色問題については、教会は公的に偶像崇拝であると断定しない。灰色問題で良心に呵責を感じないキリスト者と、良心に呵責を感じるキリスト者はたがいに裁きあわないように自戒すべきである。「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。」(ローマ14:3a)パウロ自身は偶像にささげられた肉を食べても、良心に呵責は感じなかった。
2.灰色問題で良心に呵責など感じないキリスト者は、良心に呵責を感じるキリスト者がつまづかないように配慮することも必要である。「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」(ローマ14:3)
3.だが灰色問題は、「どちらでもよい」という気楽なことではない。かえって、灰色問題に直面するとき、私たちはひとりひとりが神の前での自らの良心に忠実であることを求められる。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:22,23)


 灰色問題は日の丸・君が代についても言えると思う。神社参拝は客観的にまぎれもない偶像崇拝であるから黒だが、日の丸は偶像であり、君が代は偶像賛歌であると断定できるか?あるいは逆に、日の丸・君が代は偶像ではないと断定できるか?あるキリスト者の良心にとっては偶像だと感じられ、あるキリスト者の良心には偶像ではないと感じられるので、これは灰色問題に類するといえよう。日の丸に敬礼することを容認するようなキリスト者を一般に不忠実な人々と断じることはできない。先の戦前・戦中、神社参拝を敢然と拒絶して投獄され拷問にも耐えたキリスト者が、日の丸・君が代は偶像礼拝とは認識しなかったと証言するのを複数回聞いたことがある。
 歴史を紐解いて、日の丸は、もともとは江戸時代末期外国船と区別する必要から、薩摩の船がつけたマークだとして日の丸に偶像性を認めないキリスト者もあろう。だが、もう一方で、先の戦前・戦中、国が教科書で日の丸は天照大神と子孫である現人神天皇を意味すると教えていたことを重く見て、日の丸が偶像だと認識するキリスト者もいる。また、万国旗の中の一枚としてピラピラしている日の丸を偶像だと思う人は少ないだろうが、卒業式に正面に掲げられ、しかも、拝礼を強制される日の丸には偶像性を感じる人は多いであろう。強制されなかったころは、そうでもなかったものが、昨今これが強制されることによって偶像性を増してきたといえる。だが旗が自治体の旗と併置されているゆえに、自治体の旗が偶像でないのと同じように日の丸も偶像とはまったく思わないと判断する人もいるだろう。

 こういう問題に対してキリスト者はどういう態度をとるべきだろうか。上の「偶像にささげられた肉」問題への対処の原則を適用してみよう。


1.灰色問題なので、教会として公的に日の丸は偶像だと断定することは無理である。
 日の丸問題集会につどうキリスト者の多くは敏感に偶像性を感じる人たちであるから、そういうところでは日の丸は偶像だと断定できそうに思える。だが、現実には日の丸に敬意を表して良心になんら呵責を感じない、敬虔なキリスト者もいる。日の丸に強い偶像性を感じるキリスト者は、感じないキリスト者を非難しがちであろうが、そこは自戒すべきである。また、日の丸に偶像性を感じないキリスト者は、日の丸に偶像性を感じるキリスト者は神経過敏だと判断しがちであろうが、これも自戒すべきである。


2.「強制に従わない者は処罰すること」には教会を挙げて反対すべきである
 日の丸に偶像性を感じないキリスト者は、国や自治体の日の丸強制について無関心になりがちだが、これも自戒すべきである。かりに自分は平気でも、つまずいてしまう兄弟姉妹があるのだから、彼らの良心のために関心を持つべきである。教会は政治的中立であるべきだというのは正論であるが、これは逃げ口上として便利だが、しばしば現実の世界に生きる教会、キリスト者には役に立たない抽象論となりがちである。政治というのは現実の世界のことなので、それを望まなくても、賛成するのか反対するのか、理由の如何を問わず二者択一を迫られる。反対の意思を明確にせず、黙っていることは賛成に票を投じたのと同じことになってしまう。日の丸そのものについては、「偶像にささげられた肉」という灰色問題といわざるを得ないから、この件でキリスト者がたがいに裁きあうことは避けるべきであるが、「強制に従わない者は処罰すること」という条例には反対することが神の前に正しいことであると思う。その目的は二つある。
  第一の目的は、日の丸に偶像性を感じる兄弟姉妹の良心が、そういう強制によって踏みにじられることから守るためである。兄弟愛のゆえに、そうした事態を防止するために努力したい。
  第二の目的は、この国を滅ぼさないためである。私たちはローマ13章がいうように国家というものに神がお与えになった職務は世俗的業務であるにもかかわらず、黙示録13章に見るように、国家はえてしてサタンによって獣化して自らに礼拝を求めるような習性をもっていることを知っているからである。大阪市長橋下氏によるこのたびの条例のありようは、国家の獣化への方向性を示している。獣化した国家は早晩滅ぼされる。国民主権という建前のある国に、神によって派遣されている私たちとしては、これに対して反対を表明する責任が、神の前にあると思う。この国を暴走させて滅ぼさないためである。


3.神の前で自分の良心に従うべきである。
 日の丸が偶像かそうでないかは灰色だというのは、「どちらでもよい」という気楽なことではない。かえって、ひとりひとりが神の前での自らの良心に忠実であることを求められる。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:22,23)


*韓国における国旗問題

 ところで昨日はフランスの国歌のことを取り上げたが、国旗について議論があるのは日本だけではない。ちなみに、韓国の二人の牧師に別々の機会に聞いたのだが、韓国の太極旗は陰陽思想を表現したかなり宗教性の強いものであるが、これへの拝礼が偶像崇拝にあたるかどうかで議論が生じたことがあったという。そのとき、韓国教会では国旗の拝礼は偶像礼拝にあたるとしてこれを拒んだが、国家への忠誠の表現として胸に手を当てるというかたちで合意したという。一人の牧師は「拝礼は人格に対する行為であって物に拝礼はしないということです。」と言っていた。
 韓国の国旗・国歌問題はこちら↓
http://www.labornetjp.org/worldnews/korea/knews/00_2011/1324478610298Staff