苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国歌でもめている国は日本だけではない

 「国歌を歌えないようなやつは非国民だ。」とか、時には「国歌を歌えないようでは、世界で通用しない。世界中では国歌は大切にされている」などと都知事やどこぞの市長が言う。ほんとうだろうか?まあ、そういう人にとって「世界=アメリカ様」なのだろう。たしかにアメリカ人は世界一国歌が好きな国民だろう。だが世界はアメリカだけではない。
 ワールドカップでの試合前の各国国歌斉唱を見れば、フランス代表選手のなかには大声で歌う人もいれば、そうでない人もいる。元気に歌う選手もいるし、歌おうとしない選手もいる。国歌にかんする認識、態度は国々、個人個人でいろいろなのだ。
 フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の内容を見れば、こりゃあ歌いたくない人がいるのもあたりまえである。リフレインのところを引用すると・・・

Aux arms,citoyens!
Formez vos bataillons!
Marchons! marchons!
Qu'un sang impur abreuve nos sillons!
武器を取れ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!

 これは革命歌である。血なまぐさいわけである。フランス国内でもさすがに賛否両論があるようで、特に若い世代に反対の声が多いという。
 世界の国歌の歌詞はどんなことが書かれているかを見てみると、大体次の4つのグループに分類される。代表的なものを挙げてみる。出典http://www.worldfolksong.com/anthem/

1 神に君主の加護を祈る
<イギリス>

神よ我らが慈悲深き 女王陛下を守りたまえ
我等が高貴なる女王陛下の永らえんことを
神よ我らが女王陛下を守りたまえ
勝利・幸福そして栄光を捧げよ
御代の永らえんことを
神よ我らが女王陛下を守りたまえ

2 君主をたたえる
<日本>

君が代は 千代に八千代に
 細石の巌となりて 苔のむすまで 

3 歴史や風土を讃える
<オーストラリア> 

オーストラリアの同胞たちよ
喜ぼうではないか 我々は若くて自由だ
苦労して手に入れた黄金の地と富
海に囲まれた我が国に与えられた
美しく豊富で貴重な自然の恵み
 歴史の中でとこしえに歩まん
進め 美しきオーストラリアよ!


4 祖国の独立・革命を讃える
<米国>

 おお、見えるだろうか、
夜明けの薄明かりの中
我々は誇り高く声高に叫ぶ
危難の中、城壁の上に
雄々しく翻る
太き縞に輝く星々を我々は目にした
 砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗は今もたなびいているか?
自由の地 勇者の故郷の上に!

(一部、改訳した「まだ」→「今も」)


 こうして見て来ると、国歌というものは、いずれもその国の成立の時代背景に強く影響されて誕生することがわかる。君が代は、もともとは古今集にあった単に長寿をことほぐ歌だった。「わがきみは 千代に八千代に さざれ石の いわほとなりて 苔のむすまで」という歌の冒頭を「君が代は」と変更して、明治以降、国の歌として用いられるようにした。つまり、個人の長寿の祝いを、天皇万世一系(これは虚構だが)を願う歌にしたのである。江戸の幕藩体制が崩れて、天皇を中心として欧米列強に伍しうる国を作ろうとした、そういう時代を背景としている。古典文学趣味で天皇が好きな人が歌うこともあるだろうが、戦後、国民主権憲法を持つ日本には国歌としては矛盾を感じる人がいるのは当然である。文部科学省も、実は、君が代の歌詞が民主制の日本には適合しないと思っているからだろう、その歌詞の意味についてはいっさい教えないで、ただ歌えという非理性的指導をしている。「天皇憲法第一条にいうように日本国民の統合の象徴なのだから、その天皇が千代に八千代にあるようにということは、日本国民の統合が長く続くようにという意味だから、これでいいのだ」という理屈を言う人もいる。少数の人はそれで納得できるかもしれぬが、多くの人には、迂遠というか、屁理屈に聞こえるだろう。イギリス風の立憲君主制タイプの民主主義の説明であるが、かんたんな理屈ではない。
   こちら参照→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20091213
 こんなわけで、君が代の歌詞は論議を呼んであたりまえなのである。国歌として道理にかなうのだというためには、むずかしい理屈をこねないといけないような歌を、国民みんなが歌うべしという国歌にしておいて、歌わない奴は非国民だとかいって、処罰するというのでは、まるでやくざがいちゃもんをつけているようなもんである。わざわざ場違いな奇妙な格好をしておいて、そちらをつい見てしまったら、「おい兄ちゃん、わしにガンたれよったな。ちょっと顔かしてんか。事務所まで来てもらおうか。」というようなこと。卒業式や入学式にそんなチンピラがするようなことを、教育委員という人々が教員たちに対してやっている。「今度、再教育の講習会に来てもらいましょうか。」とか言って。人間として恥ずかしくないのだろうか。
 大阪のほんまもんの愛国者は言うだろう。
「市長はん、この歌はどう見ても国歌にふさわしくないやおまへんか。君が代歌わへんからいうて、非国民なんていちゃもんつけんといてんか!わしかてこの国のこと大事に思てんねんよ。もっと、この国にふさわしい歌が国歌やったら喜んで歌いまっせ。」
 国歌がどうしても必要だというなら、この平和を第一とする日本には、筆者は「さくら」がいいと思う。信州ではやよいには桜は見られないけれど。

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り
かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざやいざや 見にゆかん