苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アブラハムの生涯12  とりなし祈る


    (ロトの妻と呼ばれる死海ほとりの岩)


「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」
 主なる神が、厳かにこう言われるのを聞いて、アブラハムは体中が粟立った。念頭に浮かんだのは、甥のロトのうしろ姿である。二十年前、家畜のための水場・草地争いをして、背を向けて出て行ったあのうしろ姿が。幼くして父親を失ったロトは、おじであるアブラハムを父親のように慕い、また子どものないアブラハムはこの甥をわが子のように思ってかかわってきた。この約束の地への旅立ちにも、ロトは同行してきた。だが、アブラハムと経済的問題でトラブルが生じると、ロトはさっさと低地の有利な地を選んでおじに背を向けて出て行ったのだった。そして行った先が、背徳の町ソドムであった。
 主がソドムに審判を下そうとしておられるのを知って、アブラハムは神の前にひれ伏して叫んだ。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」
 アブラムの祈りは強力だった。なぜか?それは彼が、人間の義を根拠にしてではなく、神ご自身の公義を根拠として神に訴えたからである。神の前に人間の義は不潔なぼろ雑巾のようなものにすぎないから、人間の義を根拠にするような祈りは力強い祈りにはなりえない。だが、神御自身の義に訴えるならば、その祈りは神の御手をも動かす強力な祈りとなる。
 すると、主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
 ところが、主の答えを聞いて、さあと立ち上がろうとすると、アブラハムは不安になった。いや正しい者などあの町に五十人もいないかもしれない、と。そこでアブラハムは「四十五人ならどうです。」「いや三十人なら」「いや二十人なら」、そしてついに「十人ならどうですか」とまで、アブラハムは神に対して値切りに値切った。
 すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主も、このソドムを滅ぼしたくて滅ぼされるわけではない。主も惜しんでおられたのである。ソドムの町は悪に満ちていたが、それでもなお主はできるならばソドムを救ってやりたいと惜しまれた。
 「いかにソドムがひどいと言っても、十人くらいは正しい人はいるだろう。」こうしてアブラハムは、ソドムのための命乞いが成功したものと思って、自分の天幕に帰った。アブラハム祈りは神の公義を根拠として訴える祈りであったゆえに力強い祈りでありえた。しかし、彼は神の公義のみを根拠とすることはなかった。彼は「十人の人間の義」をも根拠として、ソドムを滅ぼさないでくださいと神に祈るにとどまったのである。そうして、アブラハムは自分の天幕に帰って行き、妻に神の前でのとりなしの祈りのことを語りながら夕食をとって、床に就いた。
 ところが翌早朝まだ暗いとき、アブラハムは地の底から地鳴りがして、まもなく突き上げる強烈な衝撃にからだが飛び上がった。上下左右にめちゃくちゃに揺れ、ゆれはなかなかやまない。テントは倒れて、ばさっとアブラハムの上にかぶってきた。
「しまった。ソドムには、ただの十人も正しい者がいなかったのだ!」
アブラハムはそう叫びながら倒れた天幕からはいずり出すと、あの場所へと駆け出した。息を切らせて低地が一望できるところに来て、 ソドムとゴモラのほうを見おろすと、見よ、昨日まであの主の園のように美しく潤っていた低地の一面から、まるでかまどのように煙が立ち上っているではないか。
 「ロトーッ!・・・ロトーッ!」アブラハムがのどから血が出るほどに叫んでも、だれも答える者はなかった。アブラハムはそこにへたり込んでしまった。「十人、ただの十人も、正しい者はいなかったのか。ロト、お前は主の審きの火の中に滅びてしまったのか。」アブラハムは砂をつかんでつぶやいた。せっかくメソポタミア連合軍から助けてやったのに、またも背を向けて滅びの町ソドムへと帰って行ってしまった愚かな甥のことが憤ろしく、かつ、あわれだった。
 ・・・しかし、実はロトは滅びの火から救出されていたのである。「神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」とある。主は、信じて祈る者の祈りをむなしくされない。聞かれなかったと思った祈りも、実は、聞かれていたということがある。