苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人間の尊厳と使命   (人間1)

          創世記1:26-28、2:15
          2012年2月19日 小海主日礼拝



  (散歩道)



「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1:26-28)
「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)

 「自分は何者なんだろう?いったい生きていて何の価値があるのだろう?」普段は考えないそんなことを、ときに人生の中で立ち止まってみると、考えざるをえないことがあるものです。高校生の私は自分の生きている意味、自分の人生の目的を考えてもがいていました。そうして翌年夏の終わりに友人の家で牧師さんに会い、その帰り道に本屋で旧約聖書を買い求めました。そうして創世記を読みました。そこには、人間が人間であるということの意味、人間の尊厳というものが何であるかということが書かれていました。
 本日は、創世記から、第一に人間の尊厳、第二に人間の使命について学びます。

1.人間の尊厳

 まず、人間の尊厳について。古代ギリシャの哲学者は人間は社会的動物であるといいました。たしかに、聖書には、神は「神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とありますし、「人がひとりでいるのはよくない。」とありますから、人間が社会的動物であるというのは人間の一側面を表現しています。ですが、社会的動物というだけなら、アリやミツバチもそうですから、十分ではありません。
18世紀フランス革命の時代のある思想家は人間は精巧な機械あるといい、19世紀以降は、人間は生物進化の頂点にいる動物の一種であるという進化論が流行し、21世紀になって遺伝子組み換え技術などが出てくると、人間は遺伝子情報の束であるというような考え方が出てきました。このように近現代では、人間は機械だ、動物だ、遺伝子情報の束だというふうな合理主義的な見方が流行しています。
 人間はある種の機械あるいは動物であるというような見方にも真理の一面はあるのです。創世記2:7を見れば「神である【主】は土地のちりで人を形造られ」たと書かれていますように、人間も物質的な側面からいえば、他の動物や機械と似たところはあります。近代西洋では、そういうさめた見方ができたので、近代医学が生まれて役に立っています。脳の中のある物質が不足していることで、ある病気になるということが分かってきて、それを補う薬を投与して回復させることができるとか、あるいはある内臓の具合が悪いとこれを自動車の部品交換をするように交換することで治療するなどいう西洋医学の方法は、人間の機械的な側面を捉えたことで編み出された技術です。
ただ、人間には多様な側面があるので、人間が一面において機械に似ているということは、ごく一側面にすぎないことを忘れないことが大事です。一面だけを見て人間は機械にすぎないという見かたをすると、私たちは人をどのように扱うようになるでしょうか。故障した機械はもう役に立たないから捨ててしまうように、仕事が出来ない他人は捨ててしまえという考え方になるでしょう。人間機械論では、人間の尊厳の根拠がありません。人間は遺伝子情報の束であるというより現代的な見方からすれば、人間の尊厳はありません。遺伝子組み換え野菜とかをつくるように、よりいわゆる優秀な人間を作るために遺伝子操作をしようということになるでしょう。さらに、クローン羊と同じように、クローン人間というのを造りたいという研究者たちもいます。こういう見方によれば、人間の尊厳などどこにもありません。

では、聖書はなんと啓示しているのでしょう。
「1:26 神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 ここには、人間の尊厳の根拠が明確に記されています。神様は、無生物、植物、動物とここまで造ってこられました。それらの創造と、人間の創造の方法には明確に区別があることに気づきます。それは、ただ人間のみが神のかたちにしたがって造られた存在であるという事実です。これが、人間の特徴であり、人間の尊厳の根拠です。新約聖書の光に照らすと、ここで「神のかたち」と呼ばれているのは御子キリストのことです。「御子は見えない神のかたちである」(コロサイ1:15)とあるとおり、私たちは「神のかたちであるキリスト」のごとくに、人は造られたのです。
 同じように、創世記2章7節を見ると、「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」とあります。人は物質的側面からいえば、確かに他の動物たちと同じように土地のちりで造られていますが、神様は人間に「いのちの息」を吹き込まれたとあります。これは、1章26,27節でいうところの「神のかたちとして」造られたということの言い換えです。
  まず、自分も隣人も神のかたちであるキリストに似た者として本来造られたのだという真理を、今日は、よく腹に収めて、頭の理屈ではなく心にしっかりと刻んでおきたいと思います。まず、あなた自身が神のかたち、イエス様に似た者として作られた尊い存在であるのだということをしっかりと覚えましょう。そのような尊い者として自分を作ってくださった神様に感謝しましょう。自分を無価値な者と見なし、自分を粗末にすることは、神をキリストをさげすむことにあたります。
 次に、あなたの隣人、あなたの夫、妻、子ども、父、母、兄弟姉妹もまた、本来、神様のかたち、キリストに似た者として作られたのだということをはっきりと胸に刻みましょう。そうすれば、根本的な敬意が湧きあがってくるはずです。隣人を罵ったりすることは、神を侮辱し、キリストを罵る罪です。イエス様はおっしゃいました。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)
 このように人間の尊厳は、人が神のかたち、キリストの似姿として造られているという事実にあるので、ヤコブは次のように薦めています。
「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9,10)
 
2.私たちの二つの使命

 次に、神のかたちであるキリストに似た者として造られた私たちに、神様はどのような任務を与えていらっしゃるのかということをみことばに聞きましょう。1章28節。
「1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」

(1) 生めよ、ふえよ、地を満たせ・・・宣教の使命
 一つ目の命令は、「生めよ、ふえよ、地を満たせ」です。これは単にたくさん子どもを生みなさいという意味ではありません。神様は、人間をご自分に似せてお造りになって、ご自分の代理として被造物世界を治めさせようとなさいました。そのために、神様のみこころを行なう人間が地上に増えることを望まれたので、「生めよ、ふえよ、地を満たせ」とおっしゃったのです。
 今日でも、神様のみこころが全世界に及ぶためには、どうすればよいのでしょうか。それは神様を愛し、神様のみこころを行なう人が地に満ちる必要があります。ですから、「この生めよ、ふえよ、地を満たせ」という命令は、現代の私たちに適用するならば、「イエス様を信じる人を増やしなさい、子どもたちにもイエス様への信仰を継承させなさい」ということになります。つまり、これは、福音宣教と信仰継承の命令であるということができます。
 もっとも、イエス様を信じて罪のゆるしを得るだけでは、なかなか神のみこころを行なうわけではありませんから、日ごとにみことばを学び、いつもたえずお祈りをして、神様のかたちを私たちの内側に回復していただく必要があります。イエス様と心持、ものの考え方、価値観が一致してゆくならば、私たちは本来の神のかたちに変えられて、この地上において神様のみこころをなしていくことができるでしょう。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとき、私たちはまず自分自身が神の御子イエス様に似た者として成長し、この世で神様のみこころをなしていこうと決心するのです。

(2) 神の栄光をあらわす文化形成の使命
二つ目の命令は、文化命令と呼ばれるものです。それは1章26節と2章15節にあります。創世記1章26節「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」創世記2章15節「神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」とあります。
 このあと、アダムはまず動物たちを連れてこられると、それらに名前を次々につけてゆくわけです、アダムはいわば歴史上最初の農夫であり、かつ分類学者だったということになるでしょうか。農業をしたり、学問をしたり、料理を作ったり、家を建てたり、お洗濯をしたり、掃除をしたり、道路を作ったり、学校で教えたり、お年寄りの世話をしたり・・・などとさまざまな人間の仕事をすること、それらが神様がくださった文化命令に対する応答なのです。クリスチャンは、ただ伝道命令を受けているだけではなく、神様から文化命令をもいただいています。このことを自覚することは、大きな喜びではないでしょうか。伝道者・牧師だけでなく、それぞれ置かれた持ち場、立場はちがい、職種も異なるわけですが、みな神様がくださった大事な任務なのです。神様はそれぞれの職場にあって、みなさんが神様に祈りながら、神のかたち、キリストの似姿として、誠実に一生懸命に働くことを望んでいらっしゃるのです。
 地を耕すときにも神の栄光を表わすために、お味噌汁をつくるときにも神の栄光をあらわすために・・・とクリスチャンは意識しましょう。
 1月に神戸の兄の家に行ったとき、焼き鳥屋に連れて行ってもらいました。「鳥貴族」というお店でした。私の義姉は一昨年くも膜下で倒れてリハビリに励んで、今は、車椅子ですが普通に話しをし、楽しく暮らしていますが、兄、姉、姪と一緒に行ったのです。そのお店の若い店員たちが、とっても気持ちよい働きぶりだったのです。車椅子の客は世話がたいへんなはずです。でも、若い男性店員たちの笑顔が実にすばらしい。
 そして、表に出てみたら看板にこんなことが書いてありました。
「鳥貴族のうぬぼれ」と照れくさそうな題がついていて、次のように書いてあります。「たかが焼き鳥屋で世の中を変えたいのです。心を込めて焼いた焼き鳥、 その焼き鳥をまごころをこめた笑顔でお客様に提供していきたい。焼き鳥を食べられたお客様のしあわせそうな顔、帰りがけに「おいしかったよ」と暖かい一言「ありがとうございます」と感謝の気持ち。お客様のその顔、その一言が私たちの喜びなのです。 そんな心と心のふれあいで世の中を明るくしていきたい! たかが焼き鳥屋、されど焼き鳥屋 そんなうぬぼれを鳥貴族は永遠に持ち続けていきます。」
 クリスチャンでなくても、ただ単に自分の稼ぎのためだけでなく、「世の中を明るくして生きたい」というこんな高い志をもって、仕事に励んでいる人がいるとしたら、まして、クリスチャンである私たちは、自分が今与えられている仕事が、ほかならぬ神様から、イエス様から与えられた尊い使命であることを自覚したいものです。そうして、それぞれの場にあって、神様の栄光をあらわすのです。 私たちは、自分と隣人とが尊い神のかたちにしたがって造られたことを知っているのですから。