苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

4  捨てて得る


 アブラムにはナホルとハランという兄弟がいた。父テラの下、彼らはそれぞれウルの地で家族を持つまでになっていたが、末のハランはこの地で子どもを遺して早世してしまった。遺された息子がロトである。アブラムと妻サライには子がなかったので、甥のロトをかいわいがってやり、またロトは伯父アブラムを後見人のように頼っていた。父テラは、神の示しのゆえなのか、あるいは息子を失ったウルの地にとどまることを好まなかったゆえなのか定かでないが、アブラムとナホルたちを連れてユーフラテス河畔をさかのぼって、その源流域カランの地に移住した。
 父テラが死に、アブラムが神の命令にしたがって約束の地に立つとき、一旗上げてやろうという野心を胸に秘めたロトはアブラムに同行してカナンの地にやってきた。しかし、カナンの地は、彼らが到着してほどなくかんばつに襲われ、アブラム一行はエジプトに避難し、ロトも同行する。難民として訪れたエジプトだったが、先に見たように、思いがけぬなりゆきでアブラムは王に厚遇され、ロトもまた伯父のお相伴にあずかって一財産を得ることとなった。こうしてアブラムとロトは、牛、ロバ、羊、やぎ、らくだをたくさん持つようになった。
 ところが、エジプトからカナンの地に戻ると、アブラムとロトの羊飼いたちの間に水と草をめぐって争いが起こる。放牧を生業とする人々にとって、草地と水場は生命線である。かつて貧しく家畜の数の少ないうちは彼らは仲良く暮らすことができたのだが、富むようになったとき、そうは行かなくなった。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎みあうのにまさる」(箴言十五:十七)ということばを思い出す。
 双方の羊飼いにこぜりあいが続いていたある日、アブラムは、その争いを、カナン人とペリジ人たちが遠巻きににやにやしながら眺めているのに気づいた。「あの新入りどもは、聖なる神の民を気取っているが、やっぱり背に腹は代えられないようだ。すきあらば、やつらの家畜と女どもを奪い取ってやろう。」とカナン人たちは舌なめずりしているに違いないとアブラムは察知した。
 アブラムは心を痛めた。「われらの争いが、主なる神の御名をはずかしめることになってしまった。申し訳ないことだ。どうすれば、争いを避けられるだろう。もはやロトといっしょに住むには、無理がある。別れて暮らすほかあるまい。高地は水と草が少ない。さりとて、低地は緑豊かだが、罪深い町ソドムとゴモラが気になる。どうしたものか。・・・神にお任せしよう。」と。
 アブラムはロトを誘って、カナンの地が見渡せる高いところに来た。ロトの表情にはこの交渉で決して損はすまいという警戒心が現れている。アブラムはおもむろに口を開いた。
「ロトよ。どうか私とおまえとの間、また私の牧者たちとおまえの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はおまえの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしおまえが左に行けば、私は右に行こう。もしおまえが右に行けば、私は左に行こう。」
ロトは一瞬驚いたが、すぐに胸のうちでつぶやいた。
『ふふん。「とんでもない。叔父さんこそ先に選んでください」と俺が言うのを期待しているんでしょうね。でも、叔父さん、そうは問屋が卸しませんよ。』と。ロトはヨルダン川が潤している緑したたる低地を舌なめずりをするようにして見回して言った。
「おじさん。じゃあ、ぼくは低地のほうに行かせてもらいますね。これまで、お世話になりました。」
そしてロトは、家族と使用人と家畜を引き連れて、すたすたと緑豊かな低地へと向かってしまう。アブラムはロトの背中に向かって、「低地にはソドムがある。深入りせぬように気をつけるのだぞ。」と、呼びかけた。ロトは、背中を向けたまま右手を振って、群れを引き連れ、軽い足取りで行ってしまった。
 遠ざかっていくロトを見送っていると、アブラムの鼓膜を内側から打つ、あの御声が聞こえてきた。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
 アブラムは、恩知らずの甥に緑豊かな低地を取られ、自分は草もろくに生えていない荒地で羊どもを養わなければならなくなった。アブラムのしもべたちは「ご主人さまはなんとお人よし、間抜けなのだろう」と笑うかもしれない。けれども、主なる神は、アブラムに東西南北見渡す限り、この地全部をアブラムに与えると約束されたのである。その上、自分の子がなく、息子代わりとも思っていた甥にも去られてしまったアブラムに、これから後、主は数え切れないほどの子孫を与えるとまで約束された。
 アブラムは、この主の約束を握って、天幕をヘブロンの地に移し、そこにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに祭壇を築いて神礼拝を中心に据えた生活を始める。今のアブラムは、飢饉に右往左往して神の約束の地を捨ててエジプトに逃げた、かつてのアブラムではない。アブラムは、目先の損得に惑わされず神にゆだれば、結局は主がよきものを与えてくださることを学んだのである。
 これは私のものだ、誰にも渡すものかと言わんばかりに握り締めていると、心は焦りと不安にさいなまれ、結局は失うことになってしまう。主の前に握っていた手を開いて離すと、主が改めてより豊かに与えてくださるということはしばしばあることではないか。
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」ヤコブ1:17