苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・XIX 原罪と都市文明

1 原罪

 エバはみごもって男の子を得たとき、喜びをもって「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。」とあります(創世記4:1)おそらく、エバは神が約束されたように「女の子孫」が蛇の頭を踏み砕くとおっしゃった約束がこの男の子によって成就されるのだと期待したからです (創世記3:15)。
 けれども、日に日に育っていくわが子を見ているうちに、夫アダムも妻エバも暗然たる思いにとらわれます。子どもは幼くても、自分たちの罪を引き継いで生まれてきていることが、明らかになってきたからです。特に弟アベルが生まれると、幼い子どもたちの間にも毎日のように争いが起こるようになりました。
 アウグスティヌスは言っています。「かよわい幼児の手足は無邪気でも、魂はけっして無邪気ではありません。・・・まだものもいえない年ごろでしたが、青白い顔にきつい目つきをして、乳兄弟をにらみつけていました。・・・もっとも、乳が泉から豊に流れあふれているとき、助力を切望し、ただそれのみを生命の勝てとして生きている乳兄弟に、分けてやるのががまんならないのも、子どもの無邪気というものだとしたら、もう何もいうことはありません。」(『告白録』1:8:11)
アダムとエバの子どもたちは、我がままになり、少し知恵がつくと嘘をつくようになりました。神を畏れることを教えても、しばしば不敬虔な言動をしました。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)とあるとおりです。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)とあるとおりです。
それどころか、カインは人類の歴史上初の人殺し、しかも兄弟殺しをしてしまいます。アダムにおいて入ってきた原罪は、いかにして伝わったかについては諸説あるものの、事実として全人類に遺伝してきたのです。

2 カインと文明

 弟を殺害したカインに対して、神は次のように仰せになりました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記4:10-12)カインが土地にのろわれているということばに注目しておきましょう。カインは土と疎遠な関係になったのです。カインは、主に尋問されても悔い改めることもなく、背いて去ってしまいます。そして彼が住み着いたのは、エデンの東ノデの地。ノデというのは「さすらい」という意味ですから、からだは住み着いたものの、神に背いたカインの決して心は落ち着かずさまよっているということを暗示するのでしょう。
神に背いて去ったのはカインだけでなかったようで、アダムの娘たちのうちからカインの妻となる者が出たようです。やがて彼らが子を得たころ、カインは町を建てるようになりました。都市文明の始まりです。ジャック・エリュールは著書『都市の意味』のなかで「都市の歴史がカインによって始まるということは、数多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と指摘しています。神は「地を耕し、これを守れ」という命令を堕落前のアダムにお与えになりましたから、労働・文化形成自体はよいことです。人は、仕事につき文化的営みをすること通して神の栄光を現わすことができます。しかし、堕落後の人類の歩みを見るときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。その一つは土との疎遠な関係です。都市の形成は土地にのろわれた人類の、土に対する復讐なのだと暗示されているのかもしれません。都市は石畳で、やがてはコンクリートアスファルトで、地面を覆ってしまいます。都会人は自分の家から勤め先まで土を踏まずに通えることを誇りとします。都会人は極力、土から疎遠にすごし、都会的ということは「泥臭くない」ことを軽蔑します。その癖、胸の底には土に対する郷愁を抱いているのです。
神はアベルを失って悲嘆にくれるアダムとエバにセツという息子を与えてくださいます。セツとその子孫たちは祈りをもって神に仕える一族となりました。「4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:25,26)エノシュという名は「弱い」ということを意味していました。弱さのなかで、この一族が主を名を呼び始めたということは、主イエス神の国の住民に対する祝福のことばを思い起こさせます。「貧しい者は幸いです。・・・悲しむ者は幸いです。」
他方、もろもろの華々しい文明はセツ系の民のうちにではなく、カインの子孫に生み出されていきます。「4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。 4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。」(創世記4:16-24)。カインの子孫の中に、初めて家に住む者が現われ、牧畜を始める者が現われました。音楽を編み出したのもカインの子孫であり、鉱業・冶金業を始めたのもカインの子孫です。聖書はこれらの文明の利器や知恵をまったく否定しているわけではありません。神の民もこれらのものを後には利用するようになってゆきますし、それが非難されているわけでもありません。しかし、都市と文明がカインの一族から生まれたということから、何事かを学べと示唆しているように思います。都市と文明はカインの刻印を帯びているということです。
 カインの刻印とはなんでしょう。それは4章16節に見るように「カインは神の前から去って」ということです。神に背を向け、そんなことはできるわけはないのですが、神なしで生きて行けるという人間のごうまんな態度から都市文明が生まれているということです。神が守ってくださることを信じられない人々は、異常なエネルギーをもって自然災害や猛獣という脅威や人間どうしの争いから己を守るために、家の周りに垣根を築き、やがてそれが城壁となっていきました。さらには、敵を攻撃するために、さまざまな武器を生み出したのです。
都市と文明が、カイン族にとって何を意味しているかはあきらかです。都市と文明は、彼らにとって力ある神なのです。そして、神に反逆したカイン族の力こそ神なりとする思想は、最初の一夫多妻主義者レメクのことばによく表現されています。レメクはその妻たちに言いました。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(創世記3:23,24)
 しかし、力を神とする文明によって本当に人間は自律し、自由になれるのでしょうか。いいえ。私たちは現代人が文明の奴隷になっているという事実を見るのではありませんか。マネーの奴隷、核兵器の奴隷、物質主義の奴隷です。偶像とは常にそういうものです。人間は、偶像崇拝によって自分をある恐怖から自由にしようとして、それにいのちをつぎ込むのです。最初、それはうまく行っているように思われますが、しかし、自分自身が偶像の奴隷になっていることに気づきません。
 「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼ら は、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた者を拝み、これに仕えたからです。」(ローマ 1:24,25)
創造主に背を向けて文明を築くとき、人は自分の目的が神を愛することと、隣人を愛することであることを見失い、文明それ自体を至高の目的だとして崇拝する狂気と自己破壊への向かうのです。 本来、文化的営みの一切は、神を愛すること、隣人を愛することという目的に奉仕するための手段にすぎません。ところが芸術至上主義、科学至上主義、自由市場主義、経済至上主義、国家至上主義いずれも被造物の奴隷となる偶像礼拝であって、結局は人間を破壊するのです。
 真の自由は、被造物ではなく、創造主なる神をあがめるところにこそあります。人間の真の自律は神に背くところにはなく、神に仕えるところにあるのです。現代の私たちは、たとえ田舎に住んでいても都市文明の中におかれており、それなしでは生活できなくなっています。聖書は、文明を一概に否定するわけではありませんが、その危険性について認識しつつ、これを適切に用いて、これに支配されないように意識して生活することを勧めているのではないでしょうか。