苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書解釈について   (啓示2)

    2テモテ3:15,16、マタイ4:5-7
    2012年1月22日 小海主日礼拝

1 正しい解釈は、対象にふさわしく

 何者であれ、その対象を正しく理解したいと思えば、対象にふさわしい知り方をしなければなりません。たとえば水を知るというばあい。その温度を測ろうとすれば温度計が必要でしょう、物差しでもって温度は測れません。水の体積を測るのに温度計では役に立ちません。知りたいことがらごとに、ふさわしい知り方というのがあるわけです。
 本を理解するという場合もそうです。たとえば、数学の論文集といった本を読むときに、源氏物語のような文学性を求めて読んだとしたら、無価値であるということになってしまうでしょう。逆に、源氏物語を読むのに数学の論文のような明晰さを求めるのも的外れです。何であれ、対象を正しく解釈するには、その対象にふさわしい知り方をしなければならないのです。
解釈の原則は、聖書解釈においても同様です。聖書というものが、どういう書かれ方をしたのかということをわきまえるときに、私たちは聖書を適切に解釈することができるでしょう。聖書の正しい解釈法とは、聖書自体が要求しているように聖書を解釈するということです。対象に則した方法でそれを解釈することが大切なのであって、こちらが勝手につくった枠組みを対象に適用したのでは、対象を正しく把握し理解することはできません。聖書の各書は、歴史書、詩篇、書簡、預言書、黙示文学などといったジャンルで記されているので、そういう文学ジャンルにふさわしい解釈をすることも必要です。詩篇は詩として解釈する、歴史書は歴史書として、手紙は手紙として解釈するわけです。ダニエル書や黙示録は幻をもちいての象徴的表現の意味を読み取る必要があります。

2 聖書の神言性と人言性・・・・2テモテ3:15,16

しかし、聖書には、そういったジャンルのちがい以上に、解釈上、もっと大事な二つの性質があります。それは、聖書の霊感と関係しています。テモテの手紙に次のようにあります。 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:16)聖書は、神の霊感によって書かれた書物なのだというのです。神の霊感とはどういうことなのでしょうか。

(1) 聖書の霊感とは・・・人言性と神言性
 それは神の御霊が人間を用いて、聖書の各書を誤りなく書くように導かれたことを意味しています。モーセがいただいた契約の石の板には、神様が直接に文字を刻まれたのですが、聖書全体としてはそうではなくて、神様は人間の記者をもちいて、人間のことばで聖書を書かせたのです。それは、聖書記者たちが単なるタイプライターのように無意識で機械的に聖書を記したということではありません・・ほとんどのところは。そういうタイプライター的霊感にかんする説を機械的霊感といいます。
 また、聖書のある部分だけが霊感されたのではありません。それは部分霊感説といいます。そうではなく、「聖書はすべて神の霊感によって」しるされたのです。だいいち部分的に霊感されたとしたら、いったいどこが神のことばであり、そうでないかと区別することができるでしょうか。・・・また言葉が霊感されたのではなく、思想だけが霊感されたなどという思想的霊感説もありますが、そもそも思想というのはことばによって表現されるものです。聖書が霊感されたというならば、それは言語による霊感ということを意味します。
実際に聖書の各書を読んで見れば、聖書記者たちは40人ほどの個性豊かな人々であって、それぞれに個性・才能が十二分に活用され、ことばでもって霊感されたことがわかります。エジプトの宮廷で帝王学として法律・政治学などさまざまな知識を学んでのちに荒野の羊飼いとなってその後イスラエルの民のリーダーとなったモーセであったからこそモーセ五書を記すことができたといえましょう。聖書学者エズラ、律法学者であったパウロ、漁師であったヨハネ、ペテロ、ヤコブ、取税人マタイ、医者であったルカ、羊飼いから王となったダビデ、ソロモン・・・とさまざまな人が神様に選ばれて、それぞれの個性・才能・経験をもちいて聖書を言葉をもって書き記しました。
 神様がこのように聖書記者たちの個性、才能、置かれた状況などさまざまなことをみごとに用いて、適切な言葉をお与えになって聖書の各書を霊感されたのです。ふつう、こういう聖書の霊感を「十全霊感」とか「言語霊感」と呼びます。

 神様が聖書を、記者それぞれの個性を十分に用いて書かせたので、聖書の各書はたしかにその記者たちのことばです。しかし、同時に、それぞれの聖書のことばは神の御霊によって与えられているので、神のことばです。聖書にはいわば神性と人性があるのです。ちょうど、イエス様がまことの神であられながら、処女マリヤからまことの人として生まれられたように、聖書のことばは、神のことばでありつつ、同時に、人のことばなのです。この事実をわきまえることが、聖書を解釈するためにまず必要な認識です。

(2) 聖書は人のことば
聖書は人のことばであるので、私たちはまず聖書をその記者の立場に立って理解することが必要です。ということは、たとえば、コリント教会に向けてパウロが書いた手紙としてコリント人への手紙の第一がありますが、これを読むときに私たちが求めるのは、パウロがコリント教会の兄弟姉妹たちに伝えようとしたメッセージはなんであるのか?ということです。正しく理解するのは、コリントという町がどういう風潮の町であったかということを背景として知っていると理解が深まります。そのようにして、聖書記者が、最初の読者に伝えようとしたメッセージをつかまえるということが、聖書を理解するためにまずは大事なことです。
また、たとえば創世記1章に万物の創造の記事がありますが、どういう意図でこれは書かれたのでしょうか。記者モーセが読者として想定したのは、月星太陽・ナイル川・魚・あらゆる獣たちの偶像に満ちた地エジプトから脱出していっしょに荒野の旅をしているイスラエルの民です。そうだとすれば、モーセが創世記1章に、神が光、大気、海、陸地、植物、月星太陽、海の生き物、陸上動物、そして人間をすべて創造なさったのだと記している意図は、まことの神は万物の創造主であるから、ほかのものはすべて被造物であって礼拝するに値しないのだということが、創世記第一章の中心的メッセージだということがわかります。
執筆者である人間が、最初の読者に伝えようとしたことはなにか?それが、まず私たちが聖書を解釈するときに読み取るべきことです。

(3)聖書は神のことば
 以上のように聖書は神がある人たちを執筆者としてお選びになって書かせたことばなのですが、同時に、聖書はそれ以上のものです。聖書は、永遠の神のおことばです。ですから、聖書の記者が意識したことを超えた啓示というものが聖書の記事のなかには含まれています。
 たとえば、創世記1章の26節を見ると、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(口語訳)とあります。
 新約時代になってコロサイ書1章15節に新しい啓示が与えられていて、「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものよりも先に生まれた方です」とあるのを私たちは見ることができます。ここから、私たちは、創世記1章26節における「神のかたち」というのは、御子イエスのことであるということを知ることができます。創世記の記者モーセは、「神のかたち」が御子キリストであることを知らなかったでしょう。知らないままに記したのですが、神の御霊はモーセにこのことばを書かせたのです。
 神の啓示は、一度にすべてではなく少しずつ明らかにされていく漸進的なものであり、特に、新約時代に多くの光が与えられたものです。旧約時代には影だったその本体が新約において出現します。そうすると旧約聖書を執筆した人たち自身も影だけを見ていて必ずしもよく見えなかったことが、新約聖書によってあきらかにされるということが起こるのです。(注:そういう意味では部分的に機械的霊感を認めざるを得ないかもしれません。啓示の漸進性をいうとき、このことがでてきます。)

 以上のようなわけで、神は人間を選んで聖書の各巻を書かせられた人言性のあるものなので、私たちはまずは聖書記者の執筆意図はなんだろうと考えながら聖書を読みます。モーセイスラエルの民に何を言いたかったのだろう? パウロはコリントの人たちになにが言いたかったのだろう?パウロは愛弟子テモテに何をアドバイスしたかったのかな?などと意識して読むと、今まで見えなかったことが見えてきたりします。
が、さらに、聖書は神の霊感によるおことばであるので、聖書記者という人間の意図を超えた部分もあることを認めなければなりません。それは特に、新約聖書旧約聖書の中に隠されていた真理を明らかにしたところに関してです。神の御霊が意図されたことはなんなのだろうということを読みとるところを目指して、祈りつつこれを読み解釈することが必要なのです。

3 聖書理解と心の態度・・・マタイ4:5-7

 聖書を正しく理解するには、もうひとつたいせつなこと、いやもっとも大切なことを最後に述べておきたいと思います。このことをイエスさまと悪魔の問答の箇所から学びましょう。イエス様が伝道生涯に入られてヨハネからバプテスマを受けて後、40日間荒野で悪魔の試みに遭われました。
 「4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 4:6 言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる」と書いてありますから。』 4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」」マタイ4:5-7
 ここで悪魔がイエス様を誘惑したことばは、旧約聖書詩篇91篇11,12節からの引用です。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる」悪魔というのは、聖書のことをよく知っていて、あちこちちゃんと暗唱しているのですね。
 この悪魔に対してイエス様は申命記6章16節のことばを引用なさいました。「あなたの神である主を試みてはならない。」つまり、ここで悪魔とイエス様とはともに聖書のことばを引用し合って、対決しているのです。言い換えると、聖書解釈をめぐってイエス様は悪魔と戦い、そして勝利を得られたのです。悪魔の聖書解釈はまちがっていて、イエス様の聖書解釈が正しかったのです。
 では、両者の聖書解釈のちがいはなんなのでしょうか? ある聖書学者は悪魔が引用した詩篇91篇を長々と説明して、悪魔の引用は文脈から外れた引用であると述べていますが、こんな場面ではほとんど無意味な議論でしょう。悪魔とイエス様が、みことばによって丁々発止の戦いをしているところに、長々と詩篇91篇の文脈がどうのこうのなどという机上の議論は役に立ちません。
 では、悪魔の聖書解釈と、イエス様の聖書解釈とはどこがちがうのか?・・・それは神様に対する心の態度です。悪魔は、イエス様をわなに陥れようとして、神に反逆する思いをもって聖書を利用したのです。それに対して、イエス様は父なる神を愛する思いをもって、「あなたの神である主を試みてはならない」ということばを引用なさったのでした。そして、勝利されたのです。
 聖書解釈において、聖書解釈学を学ぶことも役に立つでしょうし、ヘブル語やギリシャ語を学ぶことも役に立ちましょう。文学ジャンルをわきまえるのも大事です。けれども、聖書解釈において、これらの学識や解釈技術よりもはるかに大事なことは、私たちの心が神を愛し隣人を愛するという目的にしっかりと向けられているかということです。もし、あなたの心が神を愛し隣人を愛するという目的に向けられて聖書を読んでいるならば、あなたの聖書理解は大筋においてまちがうことがありません。しかし、もしその心がその神への愛と隣人愛という、人間に与えられた根本的な命令から外れているならば、どれほど豊かな神学的知識があっても、ヘブル語やギリシャ語を自由自在にあやつることができたとしても、聖書解釈術をマスターしていても、決して聖書を正しく解釈することはできません。
 なぜなら、イエス様が聖書を通して私たちに教えようとなさるもっとも中心的なことは、神を愛し隣人を愛しなさいということにほかならないからです。神を恐れ敬い、神を愛する心をもって聖書を読むこと。隣人をどんなふうにして信実に愛することができるだろうという願いをもって聖書を読むこと。もし、そういう心があるならば、神の御霊はあなたを導いて正しい聖書の理解にいたらせてくださいます。

追記1月23日>
 今回の説教において念頭にあったのは、J.H.リースがウェストミンスター信仰告白が提示した聖書解釈原理の欠けのことである。ウェストミンスター信仰基準は、歴史的文法的解釈と聖書による聖書解釈を提示しているが、従来改革派教会がたいせつにしてきたふたつの解釈原理を落としたとリースは指摘している。
 その欠けの一つは「信仰あるいは信条の類比」であり、もう一つは「愛の法則」である。ウェストミンスター以前の「改革派の解釈学は、解釈原理として愛の法則を主張していた。律法の要約は、神を愛し、隣人を愛することである。それゆえ、すべての聖書解釈は愛を深めるものであり、兄弟愛を築けないなら、どのような解釈も再検討されなければならない。」(pp100,101)
 たしかに、第一スイス信条には、第二項で「聖書は、まさにそれ自身からのみ、信仰と愛の基準によって、解釈され説明されるべき」であるとされている。また古代教父についても信仰と愛の基準から離れなかった場合、これらを尊重すべきであるとしている。