苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XVIII 「俺流」の礼拝はだめ

「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。」(創世記4:3,4新改訳)

1 他の解釈

カインとアベルの献げ物の記事を読んで、なぜ神はアベルの献げ物には目を留めて、カインの献げ物には目を留められなかったのだろうかと首をかしげる人が多いと思います。こんなえこひいきをされたら、私だって怒るよとカインに同情してしまう人もいるかもしれません。神がカインの献げ物を拒否し、アベルの献げ物を受け入れたわけについて考えてみましょう。
アベルの献げ物が「初子の中から、最上のもの」(新共同訳「肥えた初子」)と特筆されていることから、裏返しにカインのささげ物は「最上」ではなかったのではないかと憶測する解釈があります。そうすると、この個所の意味は、神への献げ物は最高最善のものこそふさわしいのであって、おざなりな献げ物をしてはならないという教訓をあたえる個所として読まれることになるでしょう。「群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者は、のろわれる。わたしが大いなる王であり、わたしの名が諸国の民の間で、恐れられているからだ。──万軍の主は仰せられる──」(マラキ1:14)と通じる解釈です。
神への献げ物が最高最善のものであるべきだという教え自体はもちろん正しいのですが、この個所からその教えを読み取れるかというと、少々無理があるように思います。「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た」という表現からは、カインの献げ物に傷物であったということは読み取れないからです。
また、アベルは「息、はかなさ」を意味する名なので、神は小さな者の献げ物に目を留めたという意味ではないかという見方をする人もいるようですが、これはうがちすぎでしょう。神はたしかに敬虔な小さき者を顧みてくださるという教え自体は正しいのですが、そのメッセージをここから読み取るべきかというと、やはり無理です。

2 血を流さなければ

この個所を正しく理解するには、この前後の文脈と創世記という書物における文脈と、モーセ五書における文脈、そして聖書全体の文脈を考慮するのが常道だと思います。この個所の直前には、カインとアベルの父母が神の前に罪を犯したとき、神が彼らのためにある動物の血を流して皮衣を作って、彼らの恥を覆ってくださったという記事がありました。私たちは先に、この個所が動物犠牲、そしてキリストの十字架の犠牲の予型であることを見ました。また9章には大洪水の後、ノアがささげたものは動物たちのいけにえでしたし、アブラハムが神に献げ物も血を流してのささげ物でした。神へのささげ物は動物の血を流すささげ物でなければならぬことが啓示され、理解されていたことがわかります。アベルの献げ物が受け入れられ、カインの献げ物が受け入れられなかったのは、カインは神がお定めになった血を流す献げ物ではなく、「俺が汗を流して育てた畑のものをささげるのだ。」と「俺流」の礼拝を工夫して畑の作物を持って来たからでしょう。
モーセ五書というさらに大きな文脈のなかで、このカインとアベルの献げ物の意味を考えても同じ結論が出るでしょう。レビ記に記述されるのは、もろもろの動物犠牲の儀式です。たしかに「穀物のささげ物」というものもあったのは事実ですが、それらは(追記:通常)犠牲の奉献と組み合わされてささげられるものでした(出エジプト29:41,40:29、レビ23:37、民数記29:37など)。血が注ぎだされて罪の贖いがなされ、神との関係が正常化されてこそ、神への贈り物としての穀物の献げ物も有効だということを意味するものと解されます。
肝心なポイントは、カインが不熱心であって、アベルが熱心であったということではありません。アベルが情熱的で、カインが冷淡であったということではありません。礼拝においては熱心であることはよいことですが、それ以上に大事なことがあります。それは、神のみこころにかなう礼拝をささげることです。カインの献げ物は彼が工夫した「俺流」の地の作物であったのに対して、アベルの献げ物は神が定めた羊であったことに中心点があると理解すべきでしょう。
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル9:22)というのが、聖書を貫く神の御前での罪の赦しの原理です。それはキリストの十字架に集約されます。
「でも、カインは地を耕す人だったのだから、羊を献げようがないではありませんか?」と思う読者がいらっしゃるかもしれません。そうでしょうか。それほど難しいことではありません。カインはこう言えばよかったのです。「アベル。神に献げ物をしたいから、俺が丹精した畑の作物と、お前が育てた羊を交換してくれないか。」よもやアベルが断わるはずがありません。問題は、カインがこのようにアベルに一言頼むことができなかったというあたりにあったということができるかもしれません。プライドが邪魔したのでしょうか、カインは弟に頼みませんでした。
「父さん母さんから、神への献げ物は血を流すものでなければだめだと教わってきたけれど、俺が汗を流して畑を耕し、俺が種をまき、俺が草をむしって丹精して作った作物なんだから、それをささげて何が悪いはずがあるものか。俺の献げ物には、神にも文句はいわせるものか。」まあ、カインは胸のうちにこんなことをつぶやいたのではないかと想像するのです。
<コメントをいただいて追記1月23日>
 だからこそ、主は「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」と、カインが「自分は正しく行なわなかった」ということを明瞭に自覚しえたことを前提として、追及し警告なさっていると思われます。

3 主の喜ばれる礼拝とは

二点確認します。第一は、礼拝にあたって、なにより大事なことは、自分流の工夫や熱心ではなく、礼拝を受けてくださる神のみこころなのだということです。カインの昔から人間は、礼拝の中に自分流の勝手な工夫をして、みことばに定められない儀式を混入させがちでしたが、それは神には喜ばれないことです。16世紀の宗教改革者の仕事のひとつは、中世のローマ教会の礼拝に入り込んださまざま人間的工夫の除去、礼拝の純化でした。
第二点。新約時代にあって、礼拝者としてわきまえるべき必要不可欠なことは、イエス・キリストが十字架で流された血潮のゆえに私たちの罪は赦されたという事実です。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」へブル9:12