苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XVII ケルビムを取り除く方

1 ケルビム

 アダムとエバが神に反逆したので、ふたりはエデンの園から追放されることになりました。そして、だれも「いのちの木」に近づくことができないように、園の東側にケルビムが配置されたのです。
「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」(創世記3:24)
 ケルビムというのはケルブということばの複数形で、神の御座を守る天使です。炎の剣のことはよくわかりませんが、あるいはケルブたちがぶんぶん振り回していたのでしょうか。ケルビムは、いのちの木にふさわしくない者が近づいて、その実を食べて「永遠に生きることがないように」と、園を守ったのです。
 今日、教会において罪を犯したならば、本人が罪を自覚し、悔い改めて回復することを助けるために、聖餐式から遠ざける陪餐停止という処置がとられるのとやや似ています。いのちの木は神との交わりを象徴しているものです。神に反逆した人間は、神との交わりにいのちがあるのに、罪があるので神に近づけないというディレンマの中に置かれています。
 聖餐の定めのことばの中でパウロが、次のように言っています。「 11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11:27−29)
 神の前に罪を認めて告白し、イエス・キリストの十字架の贖いに信頼して御前に立ち返ることが必要なことです。それを抜きにして、主との交わりに入ろうとすることは危険なことです。そのような意味で、ケルブたちは「いのちの木」への道を守っていたと考えられます。

2 至聖所の垂れ幕のケルビム

 時代はくだってモーセの時代、主はモーセに対してアブラハム契約に基づいてシナイ山で契約をお与えになります。その趣旨は、主が恵みによってイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分の民として、約束の地を相続させてくださるということでした 。
「6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。 6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは【主】である。」(出エジプト6:6-8)。
 以上の内容はアブラハムに対する約束と重なりますが、モーセに与えられたシナイ契約の特徴は、<主が救い出した民の中に住まわれる>という点です。律法とは聖なる神とともに生きるためのルールでした。そして、神は、ご自分がイスラエルの民の中に住まわれることのシンボルとして、幕屋を作るようにモーセに命じました。ですから、出エジプト記の内容は、<エジプト脱出・律法・幕屋建設>という三つのことから成っています。ですから、出エジプト記末尾の結論的部分には、主が竣工した幕屋に住み始められたことを示す栄光が満ちました。「40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(出エジプト40:33-35)
 さて幕屋の中心には聖所があり、聖所の中は分厚い幕で仕切られました。神は、その分厚い幕の奥の至聖所に臨在を現わされました。至聖所に入ることが許されたのは、大贖罪の日に大祭司だけであり、その大祭司でさえ勝手な時に入るならば、主の聖なる臨在に打たれて死んでしまいます(レビ16:2、ヘブル9:7)。
 聖所と至聖所を隔てる分厚い垂れ幕は、「青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければ」なりませんでした(出エジプト26:31)。垂れ幕の向こう向こうは主の臨在が著しく現れるところで、いわばエデンの園を意味しています。エデンこそアダムが経験していた神との交わりの場なのですが、罪がきよめられていない者は聖なる主に近づけません。垂れ幕に織り出されたケルビムは、エデンの園の東に配置されたケルビムを表現しているわけです。この聖所と至聖所を隔てるケルビムの幕は、その後、ソロモン以後の神殿にも引き継がれていきます。

3 ケルビムの垂れ幕は廃棄された

 ところが、主イエスが十字架にかかっていのちを捨てられたとき、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕が上から下に真っ二つに引き裂かれました。 「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:50,51)幕は地震で破れたのではありません。ケルビムの幕を上から下に真っ二つに引き裂いたのは、神ご自身でした。神は、もはやケルビムの幕は無用であるとして、廃棄されたというわけです。それは神がその臨在を現わされる至聖所への道が、イエス・キリストの死によって開かれたからです。
 しかし、それは罪がきよめられていようといまいと、誰でも無条件で聖なる神の懐に飛び込むことができるようになったという安易な意味ではありません。旧約時代、神は罪に関してうるさいことをいう聖なる雷親父だったけれど、新約時代になってからは、心を入れ替えてもう厳しいことを言わないで清濁併せ呑んでくれる母性的神に変貌したということではないのです。真の神は、善悪の区別をしない無限抱擁のニューエイジの「神」ではありません。神は旧約時代であれ新約時代であれ「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(1テモテ6:17)
 この光の中に住まわれる近づきがたい聖なる神に私たちが大胆に近づくことができるようになったのは、ひとえにイエス・キリストの贖罪のみわざのゆえです。神の御子であられるお方が、人となって来られて、ご自分の肉体を十字架上で引き裂かれ苦しまれ地獄の呪いを受けてくださったので、その犠牲のゆえに、私たちは罪赦されきよめられた者とされたのです。キリストを抜きにして、私たちは聖なる神に近づくことなど決してできはしないのです。ただイエス・キリストの受肉と十字架による贖いを根拠としてのみ、私たちは父なる神のみもとに行くことができます。「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(へブル10:20)とあるとおりです。
 イエスは神であられながら、人となってくださいました。それは神と人との仲介者となるためです。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2:5)このお方こそ、私たちが聖なる父のみもとに行くための、唯一の道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)。