苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XV 全被造物の救い

1 犬は天国へ?

 「少年は牧師のわきに立って、とても大事なことを尋ねた。
『もしイエス様にお願いしたら、犬も天国にいけますか?いい犬だったら?』
 牧師はこどもを見下ろした。
『犬が?天国に?冗談じゃない。なんてくだらない質問をするんだ。神様はご自分の息を吹き込んで、われわれに命を与えてくださった。われわれが死ねば天国に行くのは、神さまの息、つまり魂だ。』
『でも犬だって息をします。きっとからだの中に神さまの息をもってるんですよ』
『ぜったいにそんなことはない』
(中略)・・・いま、自分のいちばんたいせつな友達を失おうとしている。その友達は、けっして不平を言わないし、裏切らないし、しかっても、ひどいことを言っても愛情で答え、かわいがったり、ほめたりすると、心から喜んだ。教会がのぞんでいる資質は、すべてそなえた友だちなのだ。それなのに、ここに立っている教会のえらい人は、少年の忠実な友だちのことを、天国にはいけないという。まったく不公平だ。(後略)」
 C.W.ニコル氏が自らの少年時代を描いた小説『小さな反逆者』の一節である。これは氏をキリスト教嫌いにさせた決定的出来事となった。
ところで、この牧師が断言したことには、どれほど聖書的根拠があるのだろうか?なるほど伝道者の書には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」(3:21)ということばがあるにはあるが、「だれが知っているだろうか。」とあいまいである。もう一度聖書に立ち返って救済ということを考えてみよう。

2 全人的救い

 神が人間に息を吹き込まれたということは、他の動物に比べたときの人間の特質であろう。しかし、だからといって、他の被造物が神の救いの対象でないというべきだろうか。それは、救済ということをあまりにも狭く見た捉え方である。どうもこの牧師にとっては、たましいのみが救いの対象のようである。これは、聖書的というよりもむしろ古代教会を悩ませた、霊を善とし肉体を悪とするグノーシス主義的なにおいさえする。これはギリシャ的な霊肉二元論を聖書解釈にむりやり持ち込んだものであって、本来の聖書的な見方から遠い。
 私たちは、「使徒信条」で「我はからだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」と告白する。つまり、私たちは霊だけが救われるのでなく、からだまるごと救っていただくのだと信じているのである。使徒パウロも言う。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:10,11)
 イエスを信じて罪赦された者のうちには御霊が住まわれるようになり、肉と霊の葛藤が始まる。では、からだは滅ぶべきものとして無視されているのかというと、そうではなく、終わりの復活の日にはからだ全体の救いにまで及ぶのである。そのからだは「御霊に属するからだ」(1コリント15:44)と呼ばれるが、それは霊でなく、やはりからだなのである。

3 全被造物の救い

 さらに、聖書のいう救済とは人間だけの救いを意味してはおらず、全被造物の救いを意味している。そもそも被造物のかしらである人間が神に背いたために、被造物は人間に背くようになり、大地は虚無に服して「いばらとあざみを生えさせ」(創世記3:18)るようになった。そして、今被造物は「切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:19-22)主イエスが再臨し、「正義が住む新しい天と新しい地」をもたらされるとき、全被造物の救いが完成することになる(2ペテロ3:13)。
 滅びは人間の神への反逆から始まり、神に背を向けたときにアダムは、自分のからだに働く情欲を意志でコントロールできなくなってしまった。さらにアダムは妻と仲たがいするようになった。そして、大地もまた人間と不和になってアダムたちは苦しんで食物を得るようになった。こうした滅びからの救いであるから、まず神の御前で罪を赦されて、対神関係の正常化に始まり、次に対自分との関係の正常化、対隣人関係の正常化、そして被造物との関係の正常化にまで及んでいくものなのである。そのビジョンをイザヤは次のように述べている。
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。」(イザヤ書11:6-8)

4 人と動物の「会話」
 ところで、被造物とくに動物との関係でひとつ気になっていることがある。 あなたが動物園でライオンを眺めていると、そのライオンがあなたに向かって「なにをじろじろ見ている。こんな牢屋に私を閉じ込めて何がおもしろい。」と言ったら、びっくりして髪の毛が逆立つだろう。それなのに、エデンの園で蛇に語りかけられたとき、女は「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。」(創世3:2)と平然と答えている。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が」とあるからには、これは動物の蛇である。蛇にサタンが憑依したと理解すべきであろう。
 それにしても、なぜ女は蛇に話しかけられて驚かなかったのだろう。それは彼女が日常的に動物たちと会話をしていたからだろう。人と動物との「会話」は、人間同士の会話とは様態や理解度が異なったであろうが、とにかく、堕落以前は、人間と他の被造物との間に、もっと豊かなコミュニケーションがあったのである。そうだとすれば、主がもたらされる新天新地では、私たちは他の被造物とも親しい交わりを経験できるだろう。あのイザヤの預言のように。楽しみである。
 では、最初の問いにもどって「いい犬は天国に行けるのか?」ということである。すべての犬が救われるわけではないであろう。しかし、ノアの大洪水のとき、神がお選びになった動物たちが箱舟に集まってきて救われたように、神のお選びになった「いい犬」は救われるだろう。そのときには、犬とのコミュニケーションはうんとよくなっているだろうと思うと、やっぱり動物虐待というのはしてはならないと思う。