苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XII 神の御顔を見る

1 エデンの園

ある大店(おおだな)の主人に頼まれて、庭師の熊さんは早朝から広壮な庭で、一日汗を流して働きます。一本一本の高木、低木を丁寧に、そして庭全体のなかでバランスよく、その季節にふさわしく刈り込んでいくのが庭師の仕事です。
さて涼しい風が吹いてくる頃合になると、屋敷の旦那が団扇でパタパタと懐に風を入れながら、熊さんが剪定した庭を眺めながら歩いてきました。旦那は「いやいや、実にいい按配に整えてくれたね。将軍様のお庭だって、これほど見事にはなってないでしょうな。さすが熊さんの腕前だ。」
「そりゃいくらなんでも、旦那、ほめすぎでさあ。」とか言いながら、熊さんはまんざらでもありません。苦労し工夫したツボを、この旦那はちゃあんと見抜いてくれて、仕事の価値がわかっていてくれるからです。旦那の満足気な顔を見れば、きょう一日の苦労もなにも吹っ飛んじまうのです。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる」主という創世記3章8節の前半を読むと、こんな風景が浮かびます。あの禁断の木の実の事件までは、一日の仕事が終わった頃、神が園を散歩して会いに来てくださる時が、アダムと妻にとっては何よりの楽しみでした。神は二人にエデンの園の管理を任せ、一日の働きぶりを見て、その労をねぎらってくださるのです。神の似姿に造られた人間にとって、本来、神から託された仕事に励み、そして、神とお交わりすること以上にすばらしく心満たす経験はほかにないのです。御顔を拝するこの時こそ、人にとって生きててよかったと思える至福の時でした。
それにしても、神が「そよ風の吹くころ、園を歩き回られ」たという表現は、着流しに下駄履きの神というイメージなので、これは文字通り取るべきでなく、比喩として読むべきだと主張する解釈者もいるでしょう。筆者は比喩だとは見ませんが、かりに比喩であるとしても、この大胆な表現で聖書記者が意図することは、エデンの園では神と人とはこれほど親しく交わることができたのだということです。
筆者としては、書かれているまま素直に、神が園を見て回って二人の所にやってこられたと読むべきだろうと思います。というのは、創世記の中には幾度か神が人の姿をとって出現しているからです。神はアブラハムを旅人の姿をして訪ねてくださいましたし(創世記18:1,13)、また、神はヤコブと相撲を取ってくださったことさえあります(創世記32:22-30)。堕落後の人間に対してさえ、これほど親しく臨まれた神が、ましてエデンの園で親しく臨んでくださらなかったと考えるほうが無理ではないでしょうか。
そして、これは、後の日にベツレヘムの馬屋に人として生まれ、庶民の中で生活を営まれた神のお姿の予告編と見ることができましょうし、主が再臨して完成してくださる新天新地における神の親しい臨在の予告編でもあります。
<ブログ版追記
エイレナイオスは次のように注釈しています。「園がそのようにきれいで優れたものであったので、神の御言葉は定期的にその中を歩いていた。御言葉は巡り歩き、人と語り合うのを恒とした。これは将来起こるはずのこと、つまり御言葉がどのようにして将来人間の仲間となり、人と語り、人類のあいだに来て、人々に義を教えるようになるか、それを前もってかたどっていたのである。」(使徒たちの使信の説明12)
また、アンティオケイアのテオフィロス(180年頃)も「アウトリュコスに送る」第二巻22で次のように言っています。「しかし神はそれによって万物を造ったという神の言葉は、神の力と知恵であり(1コリント1:24)、宇宙万物の父である主の姿をとるのであって、この言葉が神の姿で園に現れ、アダムと話したのである。」と。つまり、「園を歩きまわられる神」とは、後に人となってこの世界に生まれる御子イエスだと言っているのです。彼ら古代教父の理解は、聖三位一体における第二位格である御子の創造・啓示・救済における仲保的お働きから推論されたものだと思われます。
 ただし、これは神学者たちに「受肉以前のロゴス」と言われることであって、人の姿をしてこられたけれども、人となってこられたわけではありません。御子が人となられたのは、約二千年前のことであり、それは非常に特別な出来事、奇跡のなかの奇跡でした。

2 神に叛いて

 ところが、禁断の木の実を盗って食べてしまった日、神の御顔はアダムと妻にとって、恐怖の的となりました。今や、彼らは「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠さ」なければならなくなったのです。最高の喜びは、最大の恐怖となってしまいました。神は聖いお方なのに、人はけがれており、神は義なるお方なのに人間は罪に満ちているからです。そして、神の御顔の前で隠すことができるものは何もないからです。
 ある無神論に立つ哲学者が自分の幼年時代について綴った文章を思い出します。幼くして実父を失った母方の祖父に育てられますが、ある日いたずらをしてその隠ぺい工作をしていました。そのとき、彼は背中に痛いほどの神の視線を感じ、神に敵意を抱いたそうです。なにも彼だけの経験ではないでしょう。神が私たちの心の中に刻まれた正義の基準は厳しいもので、少しでも悪いことをするとピッピーと警報が鳴るのです。しかも、その正義の基準は私たちの道徳的能力を超えていて、私たちは何か悪いことをすると、心の中で必死に弁明するのです(ローマ2:14,15)。
 堕落以来、神の御顔は人にとって恐怖となりました。神の民イスラエルの中でも、神の御顔を見る者は死ぬと信じられました(創世記32:30、出エジプト3:6、イザヤ6:5など)。旧約時代にあっては、親しく神の御顔を見ることが許されているのは、唯一モーセのみで、大祭司アロンにさえそれは許されませんでした(民数記12:8)。罪を犯したら、アダムとエバの裸の恥を覆った動物の皮衣を原型として、動物犠牲によって罪を贖うことができるという規定がレビ記には定められたものの、旧約の民はそれで自分の罪がきよめられたという確信を得ることはついにできませんでした。ですから、毎年動物犠牲をささげなければならなかったのです。旧約時代の動物犠牲は、御子の十字架の犠牲という本体を指し示す影にすぎなかったからです(ヘブル10:1-4参照)。
「10:1いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 10:2もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 10:3しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 10:4なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(へブル10:1−4口語訳)
3 祝福の回復

 神の御子が人となって私たちの間に住まわれ、十字架と復活によって、神との交わりが著しく回復されました。これによって、神の御顔を見るということが、信徒にもうひとたび祝福として戻ってきました。アダム堕落以来の画期的なことです。イエスを信じる者は神の御顔を恐怖ではなく、喜びをもって仰ぐことができるようになったのです。
主イエスは山上の祝福において言われました。「心のきよい者はさいわいです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)。このようにキリスト者は、この世で確かに神の御顔を見ているのですが、それはあたかも古代の銅鏡に映すようにぼんやりと見ている状態です。しかし、究極的な祝福にあずかるときには、「顔と顔とを合わせて見ることに」なります(1コリント13:12)。
「神の御顔を見る」という人間にとっての究極の祝福を、キリストは回復してくださいました。今、キリストを信じる私たちはぼんやりとではあっても神の御顔を見る人生を許されています。しかし、キリストが来られ、新天新地が到来すると、顔と顔とをあわせるように、完全に神の御顔を仰ぎ見ることが出来るようになります。これこそ究極の祝福です。
「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」(黙示22:3-4)