苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・ⅩⅠ 二人のアダム

1 アダムとイエス

神は二人の代表者によって、人類をお取り扱いになります。ひとりは人類の始祖アダムであり、もうひとりはイエスです。そこでイエスを第二のアダムと呼ぶことがあります。この二人の代表者のいずれに属するかによって、その人の永遠の運命は決まります。アダムに属する者は滅び、キリストに属する者は永遠のいのちにはいります。
アダムと妻は、エデンの園という最良の環境で、ただ「園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてはならない。」という禁令を受けました。もし、彼らが神に従順であったなら、神はさらに完全な祝福を彼らとその子孫たちに与えたことでしょう。古代教父エイレナイオスによれば、時が来て人となられた神のことばイエスは、神が人をご自分の像に似せて創造なさったときの「神のかたち」です(創世1:27、ピリピ2:6)。アダムとエバがもし誘惑に陥らなかったなら、さらに完全に御子の像に似た者となったはずでした。けれども、彼らが神のご命令に背いたので、世界に罪と死が入ってしまいました(ローマ5:12)。
罪というのは、神の前において法的に罪責があるという意味と、性質として罪(罪性)があるという意味です。そして死というのは、もっとも本質的な意味では神との分離を意味しています。
しかも、アダムは人類の代表でしたから、その子孫はすべて生まれながらに彼の罪を受け継いでいます。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」とダビデが嘆くとおりです(詩篇51:5)。親は子に「嘘をつきなさい」とは教えませんが、子どもは必ず嘘をつくようになります。親は子どもに「意地悪をしなさい」とは教えませんが、子は意地悪をするようになります。生まれながらに罪がその中に宿っているからです。

<ブログ版追記
「アダムとエバがもし誘惑に陥らなかったなら、さらに完全に御子の像に似た者となったはず」というのは、堕落前の彼らの状態は「罪を犯しうる罪なき状態」だったのですが、最終的な救いの完成においては、「罪を犯しえない罪なき状態」であることを意味しています。
 「罪を犯しえない罪なき状態」ということが完成であることは、究極の御国においては二度と堕落しないことからわかります。その場合、いわゆる自由意志はどうなるのかという課題があります。罪を犯しえないとするならば、それはロボット的存在ということになりはしないか、と推論されるわけです。しかし、聖書はそうは言わないので、「罪を犯しえないような自由意志」というものがあるのだというのが正解ということになりましょう。
 そうであるとすると、しばしば語られる、「神様がエデンの園において、人間が罪を犯さないようにしなかったのは、愛というのは自由意志なきところには成立しないからである」という議論は実は成り立たないのではないかということになります。

 
2 エデンの園

 悪魔は人の欲につけいって罪へと誘いました。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」とあります(創世3:6)。「食べるのによく」とあるように、一つは「肉の欲」つまり肉体的な欲への誘惑です。女は食欲をそそられて、罠に陥りました。そして、彼女だけでなくアダムも、彼らの子孫もみな肉の欲への誘惑に敗れてきました。姦淫も暴飲暴食も肉の欲の暴走です。
 また、木の実は「目に慕わし」かったとあります。「目の欲」への誘惑です。アウグスティヌスによれば、目の欲とは好奇心です。女は「なんだか面白そうだわ。食べたら、いったいどうなるかしら?」と好奇心をそそられたのです。好奇心は、限度内では良いものでしょうが、限度を越えると罪になります。たとえば、麻薬をやれば身の破滅だと知っていながら、好奇心からやって滅びてしまう人たちがいるでしょう。
 また、禁断の木の実は「食べれば賢くなる」という点で魅惑的でした。悪魔は 「あなたがたが神のように賢くなれる」と誘ったのです。人が「神のかたち」として、自分と隣人の尊さを知ることは健全なことです。しかし、「神のかたち」という分を越えて、神になろうと願うことは虚栄です。虚栄は「むなしいさかえ」と書くように、実質がない繁栄です。アダムの子々孫々も、虚栄によって悪魔の罠に陥ってきました。悪魔は肩書きや地位や名誉を餌に、あなたの魂を奪い取ろうとするのです。

3 荒野で

アダムはエデンの園という好条件下で悪魔の試みに負けましたが、イエスは、荒野という悪条件下で悪魔の試みに勝利を得てくださいました。悪魔は腹ペコのイエスに対して、「肉の欲」を刺激する誘惑をしました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(マタイ4:3)しかし、イエスはお答えになりました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:4)かつて神は荒野で飢えたイスラエルをパンの代わりにマナで養ってくださったように、神の義を第一に求める者には、神の義に添えて食べ物も着物も与えてくださいます。
悪魔はイエスに「目の欲」つまり好奇心への誘惑をも仕掛けました。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」(マタイ4:6)するとイエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:7)と言って悪魔を撃退しました。
 さらに悪魔はイエスに虚栄心への誘惑を仕掛けました。イエスにたとえば中華帝国、インドのマハラジャローマ皇帝の宮廷の酒池肉林・栄耀栄華の幻などを見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑したのです。イエスは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」と撃退しました。
こうして、イエスは神の民の代表として荒野における悪魔の誘惑に勝利を収められました。アダムが悪魔の誘惑に敗れて以来、その子孫は一人残らず悪魔の誘惑に勝つことができませんでしたが、ついに神の御子イエスが人として来られて、悪魔の誘惑に対して勝利を収めてくださったのです。荒野の出来事は、その悪魔に対する戦いの発端であり、主イエスは最終的には十字架の死と復活によって、勝利を獲得なさいました。主イエスはおっしゃいました。「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
 日本人は日本代表のチームが世界大会で勝利を収めたら「やったー。勝った。」と喜ぶでしょう。なぜですか。彼らが日本代表なので、彼らの勝利に日本人の私たちもあずかるからです。主イエスは神の民の代表として悪魔の試みに勝利を獲得されたので、私たち自身は弱くても、悪魔に対して決定的な勝利をすでに得ているのです。頭を踏み砕かれた蛇のからだが、長い時間のた打ち回っているように、悪魔はすでに主イエスに頭を踏み砕かれても今なお断末魔の叫びを上げながら暴れています。しかし、悪魔の負けはもう決定しているのです。ですから、私たちも勇敢でありましょう。私たちは、キリストに属する勝利者なのです。
「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なうものは、いつまでも永らえます。」(1ヨハネ2:16-17)