苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・VIII 悪魔

1 もう一人の役者
 世界観というと、神と人間と自然という三者の関係として説明されることが多いのですが、創世記第三章を見れば、もう一人の役者、蛇がいることに気づきます。創世記記者が「野の獣のうちでへびが・・・」と言っていることを見れば、爬虫類のへびを指しているようですが、黙示録記者によってこの蛇は「あの古い蛇」と呼ばれ、悪魔・サタンと同一視されていまから(黙示12:9)、悪魔が蛇に憑依したと理解するのが穏当でしょう。私たちが問題としているのは、当然、爬虫類の蛇ではなく、悪魔です。悪魔は神の御業を妨害し、人を神に背かせ、あわよくば自分が神のように崇拝されることを欲して、あらゆる手練手管をもって人を誘惑します。
聖書を神のことばと信じていない学者たちは、悪魔という観念の起源は古代ペルシャの光と闇の二元論的宗教にあり、それが後期ユダヤ教と原始キリスト教に影響したと言いますが、聖書は旧約聖書巻頭の創世記から、悪魔が人間をたぶらかしたと教えています。

2 悪魔の起源

 ところで悪魔はどこから来たのでしょう。ユダ書に、「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」(6)とあります。この箇所から推論すれば、高慢になって罪を犯した御使いのうち、なお暗やみに閉じ込められず暗躍しているのが、悪魔とその手下の悪霊どもなのでしょう。御使いというのは、通常、肉体をもたない人格的被造物です。
なお、イザヤのバビロンの王に対するあざけりの歌の一部(イザヤ14:12-15)およびエゼキエル28章1-19節のツロに対する宣告が、悪魔の高慢と堕落を示しているという理解はオリゲネス以来のものです(『諸原理について』5:4,5)。また悪魔の別名ルシファーの出典は、ヒエロニムスのラテン語訳聖書ウルガタのイザヤ書14章12節「明けの明星(ルチフェル)」です。

3 悪魔の策略

さてエデンの園で悪魔が女の心の内に神のことばに対する疑念を生じさせると、女は神のことばを取り除いたり、付け加えたりしてしまいます。彼女は善悪の知識の木に関して、あたかもその木に魔力があるかのように「それに触れてもいけない」と付け加え、「必ず死ぬ」とおっしゃったのに、「あなたがたが死ぬといけないからだ」とぼやかしたのです。
女がひっかかったと見た悪魔は「あなたがたは決して死にません。」と神を嘘つき呼ばわりし、「あなたがたがそれを食べるその時、・・・あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と神をケチ呼ばわりします。すると悪魔のことばに乗せられた女の内にむくむくと肉の欲・目の欲(好奇心)・虚栄心という三つの邪欲がわき上がってきました。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世3:6)そして、食べてしまいました。そればかりか、悪魔の手先となった女は、夫を誘惑し夫もまた木の実を食べてしまいます。
悪魔の策略は、神のことばへの疑いを生じさせ、欲望を刺激し、誘惑に陥った人を手先として用いることでした。

悪魔の策略について、もうひとつ心に留めておきたいのは、C.S.ルイスのことばです。「悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使とを同じようにもろ手を挙げて歓迎する。」産業革命以来、科学技術文明がすべてであるというようなことが言われ続けて来ましたが、二十世紀になって世界はその科学技術が人類を害し滅ぼしてしまうのではないかという戦争と環境破壊を経験しつつあって、現在、世界の思潮は唯物論から汎神論へと振り子がふれています。まさに、ルイスのいうとおり、人間はこの両極の誤謬に陥りがちなのです。私たちとしては、聖書が教える範囲内で悪魔の存在を知り、聖書が教えるところまででその探求をとどめることが大切な心得です。

4 異教と悪魔

 悪魔の異教を用いての策略をもう少し見てゆきましょう。現代のような宗教的多元主義が流行する時代には、他宗教について寛容で理解を示すキリスト者は賢明であると見られ、他宗教に対して批判的発言をするキリスト者は愚者と見られ、顰蹙を買うのでしょう。しかし、筆者の務めは愚かと見られようと賢明に見られようと聖書が教えていることを明確にしておくことです。
 新約聖書の時代のヘレニズム世界の宣教の現場、また、キリスト教が公認される以前のローマ帝国は、「宗教的多元主義」の世界であり、現代世界の宗教事情と類似していました。アレクサンドロス大王がインドの西北部にまで軍を進めて広大な版図を手中に収め、ヘレニズム世界を成立させて以来、東西の文物がひとつの世界のなかを往来し融合するようになり、各民族がもっていた諸宗教も例外ではありませんでした。ヘレニズム世界を相続したローマ帝国においても同様の宗教事情でした。ローマ帝国支配下に入れた諸国の宗教に対して基本的に寛容政策を取りました。そうして、それぞれの宗教における神々はローマ民族が古来もっていた神話の神々のそれぞれの民族における現れであるという立場を取りました。日本風にいえば、仏教と神道を融合したいわゆる本地垂迹説です。パンテオン神殿には世界中の八百万の神々が祭られます。それらを尊重することが信心深い良いこととされたわけで、こうした神々を敬わないキリスト教徒は古代においては「無神論者」として非難されることになりました。
 こうした世界に福音を宣べ伝えていった使徒たちは、これら異教の神々についてどのように教えているでしょうか。使徒たちは各地で魔術師や占い師の妨害を受け、アルテミス神殿がそびえる偶像の都エペソでは神棚屋から迫害を受けました(使徒19:23-28)。パウロは、不従順な異教徒のうちには「空中の権を持つ支配者」つまり悪魔が働いていると明言し(エペソ2:2)、我々の敵は人ではなく、悪魔・悪霊どもであると教えています(エペソ:11,12)。キリストの受肉を否定する異端運動、グノーシス主義も悪魔・悪霊に由来するものであると断言します(Ⅰヨハネ4:1-3)。

5 国家権力と悪魔

さらに聖書は悪魔を「この世を支配する者」(ヨハネ12:31,14:30)、「この世の神」(Ⅱコリント4:4)とさえ呼んで、悪魔がしばしば国家権力を利用することも示しています。イエス誕生に際して悪魔はヘロデ大王のうちに働いて、イエスを殺そうとしました(マタイ2:1-16,黙示録12:4)。もともとローマには皇帝礼拝の習慣はありませんでしたが、オリエント世界には王を神として崇める宗教性がありました。たとえばエジプトではファラオは太陽神ラーの息子、現人神とされていました。ローマ帝国がオリエント世界を包み込むうちに、こうした王の神格化がローマ帝国に取り入れられるようになり、皇帝崇拝が行われます。古代教会は皇帝礼拝の強制で苦しみましたが、皇帝に権威を与えたのは竜すなわち悪魔であると聖書は、その黒幕をあきらかにしています(黙示録13:1-10)。
主の再臨がごく近くなると、悪魔は「不法の人」「滅びの人」と呼ばれる天才政治家を立てて、世界を惑わし、神の民を迫害すると告げています。その天才政治家は得意の絶頂になると自分を神とさえ宣言するようになると予告されています(Ⅱテサロニケ2:3-10)。

6 悪魔も神の支配下にある

しかし、聖書は悪魔も神の支配下にあると教えます。神は人間が堕落すると、蛇への裁きを宣告し、その中で「女の子孫」の「蛇の子孫」に対する最終的勝利を予告されました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世3:15)
ヨブ記1章で、サタンは御使いたちのうちに立ち混じって神の前に出ています。サタンは、神の許可なくしてヨブを試みることはできません。サタンは神の主権下に置かれているのです。サタンは神と対等ではありません。悪魔が対等に戦うのはせいぜい善き天使にすぎません(黙示録12:7)。サタンは自らを神と対峙する者として振舞いわれわれを欺くのですが、聖書的な観点からすれば、サタンの対峙者は神ではなくミカエルなのです。この点、リベラルな学者たちが聖書にある悪魔の教えはペルシャから入り込んだのだというのは的外れです。聖書における悪魔の位置づけは、善と悪が対等であるとするペルシャ的な二元論的宗教とは、まるで異質です。というわけで、なんでも合理的に説明したがるリベラルな学者たちは、すでに悪魔の策略に陥ってしまっているのです。

7 イエスの宣教の妨害と神の知恵

エスが公生涯にはいると、悪魔は荒野で誘惑します。この試みはエデンの園の試みと対応しています。アダムは人類の代表として、エデンの園という好条件下で悪魔の三つの邪欲にかかわる誘惑にあって敗れましたが、イエスは荒野という悪条件下で、第二の人類の代表として誘惑に臨まれました。悪魔は石をパンに変えよと肉の欲を誘い、高所から飛び降りよと目の欲を刺激し、国々の栄華を与えようと虚栄心をくすぐりましたが、イエスは勝利しました。
エスに誰より先鋭に敵対したのは、宗教的指導者たち特にパリサイ派でした。イエスはパリサイ人を「蛇ども、まむしのすえども」(マタイ23:33)と呼んで、彼らの偽善的宗教性は悪魔に由来し、彼らはあの「へびの子孫」(創世3:15)であることを暴露します。神の御子を憎んで十字架に磔にした首謀者は、祭司長一派と律法学者たちでした。また、悪魔はイエスの弟子にも働きました。ユダはサタンに心奪われて敵にイエスを売ってしまいます(ヨハネ13:2,27)。悪魔は人間を用いて神の御子を十字架に磔にするという最悪の業をなしとげたのです。
しかし、神の知恵は悪魔の知恵をはるかに凌駕していました。神にとっては、悪魔によるゴルゴタでの最悪の仕業は、人類を罪の呪いから救出するためのご計画の成就でした。神の知恵はなんと底知れず深いことでしょう!