苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅳ 神のかたちと三重職

1 人は御子のかたち

(1)人の尊厳の根拠
人間とは何でしょうか。古代の哲学者は「人間とは理性的動物である」あるいは「社会的動物である」と言い、近代の進化論者は、「進化の頂点に立つ高等動物だ」と言いました。今後、もし遺伝子をコントロールして子どもを作るような時代になってしまうと、多くの人は「人は遺伝子情報の束だ」と考えるようになるかもしれません。
自分が何者であるかという認識はとても大切なことです。もし自分はロボットだと思っているならば、その人はロボットのような生き方をするでしょうし、他人のこともロボットのように扱うでしょう。自分はサルの一種にすぎないと自覚している人はサルのような生き方をするでしょうし、他人のこともサル扱いするでしょう。また、人間は遺伝子情報の束にすぎないと考える人は障害が現れる可能性がある胎児を殺してしまいます。では創世記は、人間とは何であると私たちに教えているでしょうか。
「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1章26、27節 口語訳)
 何とすばらしいことでしょう。人間とは神のかたちに似せて造られた存在なのです。ここに人間の尊厳の根拠があります。人間が堕落したのちも、この人間の尊厳の根拠は変わりません。「人間の悲惨は王座から転落した王の悲惨である」とパスカルは言いました。腐っても鯛です。大洪水の後に、神様はノアにおっしゃいました。
「人の血を流すものは、人に血を流される、
神が自分のかたちに人を造られたゆえに。」(創世記9:6 口語訳)
「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(ヤコブ3:9,10口語訳)
 現代の唯物的な価値観の下では、人間の尊厳の根拠というものを見出すことはできません。ただ、聖書のみがそれを明らかにしています。

(2)「神のかたち」とは御子
 ところで、新約聖書コロサイ書には、この「神のかたち」とは御子キリストのことであると記されています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)そして、御子は御父と瓜二つですから、御子に似ているということは、御父に似ていることでもあります。人はもともと三位一体の神様の第二人格である御子に似た者として造られたのです。だからこそ、人が堕落したとき、御子はご自分に本来似た者として造られた人を救うために、自ら人となってくださったのでした。そして、御子イエスを信じる私たちは、ひとたびアダムにあって失ってしまった御子のかたちを回復し、その完成を目指して生きていくようにと召されて御霊を与えられいるのです。御霊は、御子の御霊でもあり、神の御霊でもあられますから、御霊をいただいた人は御子と御父に似た者とされてゆきます。これがふつう神学用語で聖化と呼ばれることです。それは、御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という品性になっていくことでもあるわけです。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)



2 交わる者

<ブログ版追記>
ところで、神様はここで「われわれのかたちに人を造ろう」とおっしゃいました。ある聖書学者たちは、これは多神教の資料が紛れ込んだのだとか、神が御使いに呼びかけたのだとか言います。また、それほど用例は多くないのですが、「尊厳を表す複数表現」だという理解をする人々もいます。たしかに神は唯一であると確信していた創世記の記者がなぜ「われわれのかたちに」と書いたのか、考えればとても不思議です。私としては、創世記の記者の理解さえも超えて、彼をしてこのように書かざるを得なくさせた御霊のお働きがあったとしか言えないと思います。というのは、新約聖書を見るならば、この「われわれ」というのは、御父と御子の聖霊における交わりを示していると読むのが、ごくしぜんであるからです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」ヨハネ1:1-3口語訳
「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」ヨハネ17:5口語訳
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」コロサイ1:15,16口語訳
 聖書の霊感において聖書記者たちは、自動タイプライターのように機械的なものではなく、その人格、その意図が用いられたことは、聖書各書の書かれようを見ればあきらかなことであり、そういう霊感のありかたをふつう十全霊感説(Plenary Inspiration)と呼びます。しかし、それだけでは聖書の啓示を全面的に把握できるわけではありません。聖書啓示は、神の御霊の導きによって長年にわたってさまざまな記者が用いられて徐々に光を増してきたわけですから、前の記者が必ずしもよくわからないで書いた部分が、後の記者たちの記事によって明らかにされていくという現象があったと認めなければなりません。それは、聖書各書の記者が最初の読者にあてて伝えようとした以上の内容を、実は含んでいる場合があるのだということを意味しています。
 聖書釈義というのは、ふつう聖書の各書の記者が最初の読者に伝えようと意図したことをつかむことを目的としているのですが、もしそこで留まって満足してしまったら、行き着くべきところまでは到達していないといわざるを得ません。聖書は、それ以上の書物ですから。啓示の超自然性ということです。
 古代教父たちは、そのことをわきまえていましたから、先に三位一体を学んだときのように、創世記1章26,27節における「われわれ」というのが、三位一体を示唆していると指摘しています。<以上追記
三位一体の神が似姿として人間を創造されたのですから、「神のかたち」とは、まず人が人格的交流のうちに生きる存在として造られたことを意味していると考えられます。父と子と聖霊の神がそのうちに愛の交わりを持っていらっしゃるように、人間もまた人格的な交流をする存在です。
エスは、すべての律法を二つに要約して人間存在の目的を教えてくださいました。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」。「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」。人の目的は、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分と同じように愛することなのです。
どんな物でも正しくその目的に従って使用していればめったに故障しませんが、目的を外して誤用すると壊れてしまうものです。もし人間が他人を憎むために造られていれば、憎めば憎むほど体調が良くなるでしょう。けれども実際は逆で、人のことを憎んでいると、その結果自分の体調が悪くなるという研究もあります。人間はやはり愛するために造られているのであって、憎むために造られているのではないのです。うれしいことですね。ですから、私たちは神を愛し隣人を愛するという至高の目的のために、すべてのことをすべきです。

3 知と義と聖

 もともと「神のかたち」である御子において似た者として造られた人間の任務を知るために、神がキリストにあって救われた人を再びご自身のかたちに造り直してくださるという、新約聖書の約束を見てみましょう。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4章23〜24節)。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ3章10節)とあります。「造り主のかたち」とはすなわち御子イエスのことです。
 これら新約聖書における再生にかんするみことばから逆算して、改革派神学では伝統的に「神のかたち」の内容を「知と義と聖」という三つの側面でとらえてきました。言い換えると、知性と道徳性と宗教性において、人は神のかたちに造られているということです。
 人は知性という点でたしかに他の被造物と比べて特徴があるものです。人のことを学名のラテン語で「ホモ・サピエンス」、つまり「知恵ある人」と呼ぶのは根拠のあることです。
また人間は道徳性において特徴があります。道徳性というのは、責任を問われ得る自由な存在であるということを意味します。エンジンのトラブルで自動車事故が起きても、自動車は責任を問われません。自動車には自由がないからです。責任を問われるのは整備士や設計者という人間です。人は自由があるから責任を問われる、道徳的存在なのです。
また、宗教性とは、人間は聖なるものに向かって祈らざるをえない存在であるということです。かつて無神論国家を標榜したソ連のような国では、「宗教はアヘンだ」として無神論教育が国民に施されましたが、人間から宗教を奪い取ることはできませんでした。皮肉なことにモスクワの赤の広場にはレーニン廟が設けられて、レーニンの亡きがらを崇拝する人たちが絶えませんでした。宗教性は人間の本性の一部なので、消しようがないのです。

4 三重職

 この知と義と聖は、キリストと教会の三つの職と対応しています。預言職・王職・祭司職の三職です。これら三つは切り離せないものなので、三重職といったほうがよいようです。 キリストは、この三つの職務をへりくだった低い状態と、復活して昇天し御国に着座された高い状態とで果たされます。キリストの二状態については、ピリピ2:6-11を参照。
 キリストは神を知り神を知らせるという預言職を果たされました。キリストは、人として私たちの住むこの世界の中に来られて「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1章18節)。私たちはキリストによって、神と神のみこころを知ることができます。またキリストは復活し昇天し着座され、聖霊を教会に送ってみことばを啓示し、かつ、これを理解するための導きを与えて、預言者の務めを果たされます。
キリストは敵であるサタンと戦って民を守り、民を統治する義なる王です。低い状態において、十字架の直前、イエスはいばらの冠、派手な衣、王しゃくの代わりに葦の棒と、王のいでたちをさせられ、「ユダヤ人の王様万歳!」と辱められました。罪状書きには「ユダヤ人の王」とありました。イエスは義なる王として、身を捨てて十字架の死においてサタンと戦い、私たちを敵の手から救出されたのです。
復活し、父なる神の右の座に着いたキリストは、王として世界と教会を統治しています。「(父なる神はキリストを)すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました」(エペソ1章21〜22節)。
またキリストは聖なる祭司として、低い状態においてご自身をいけにえとして神にささげて、また私たちのためにとりなしていてくださいます。「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章12節)。そして、昇天し父なる神の右に着座なさってからは、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7章25節)。


それで、教会はキリストの体として、真の知識を伝える預言者・義なる王・聖なる祭司という三つの職務を果たす任務が与えられています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2章9節)。
教会における預言職とはみことばの宣教であり、王職とは教会を神のみことばに従って正しく治めることであり、祭司職とは教会で聖礼典を正しく執行し、またとりなし祈ることです。
また、クリスチャンである私たちは預言者として世に神のみこころを宣べ伝え、王としてこの世界に神のみこころが行われるように行動し、祭司としてこの世のためにとりなし祈り奉仕する責任があります。神は私たちがこれら三つの職務を果たすように命じていらっしゃいます。それは神を愛し、隣人を愛するという大目的を果たすためです。