苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅲ「時」と人生


エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
・・・・・
おおかみは小羊と共にやどり、
ひょうは子やぎと共に伏し、
子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて、
小さいわらべに導かれ、
雌牛と熊とは食い物を共にし、
牛の子と熊の子と共に伏し、
ししは牛のようにわらを食い、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、
乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、
そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、
主を知る知識が地に満ちるからである。 (イザヤ書11:1−9)

 メリー・クリスマス!
 本章のテーマは「狼は子羊とともに宿り・・・」というあの完成の日をめざす、神の歴史の展開のなかで、いかに生きてゆくか?です。
(本稿は、創世記1章から11章に啓示されているいくつかの主題をとりあげ、聖書全体の文脈のなかでその主題について思い巡らし、私たちが少しでも神を愛することに益するようにと書かれた「創造からバベルまで」の一部です。)


1 多にして一の世界

 私たちが住んでいる地球は、一日二十四時間で自転しています。もしそうでなければ、回し忘れた豚の丸焼きが片面黒焦げ、片面ナマというふうに、地球は片面は灼熱地獄、もう片面は暗黒の寒冷地獄です。
 さらに神は地球を傾けて、生物たちが生活できる面積を広くしてくださいました。もし地球が傾いていなければ四季の訪れはなくなり、北海道あたりまで寒帯になり、本州も大半冷帯になってしまいます。
 また水は高い所から低い所へと流れていきますが、海水は太陽熱を受けて水蒸気となって上空で雲を形成し、大気の循環によって内陸部に運ばれてまた雨を降らせます。雨で大地がうるおうと植物はすくすく育ち、動物に食糧を提供します。
 ですが、植物も動物に助けてもらっています。植物は花を咲かせて虫たちに蜜を提供し、虫たちは花を受粉させ植物の結実を助けています。鳥たちは実を食べると、遠くへその種を糞という肥料をつけて落とします。神の作品をつぶさに見れば見るほど、その知恵に鳥肌が立つほどの驚異と畏怖を感じます。
 神は、これほど多様な被造物を、なんと見事な一つの調和のうちに造られたことでしょう!この一つでありながら多様であり、多様でありながら一つである世界には、三でありながら一つであられる神の影が落ちているということができるでしょう。

2 「時」のラセン構造

 この多にして一の被造世界は、神の配剤のもとで移り変わって行きます。
自然宗教になじんだ古代ギリシャ人は時を円環としてとらえたと言われます。春夏秋冬の営みや、生まれ成長し子孫を残して死んでいく生の営みや、月の満ち欠けを見ていると、時はただ繰り返しに見えます。もしそうなら歴史というものは成立しません。今あることは、かつてもあったことであり、未来にもまたあることであって、なにも特別なことではないからです。ですから、ギリシャ文化には歴史意識がありませんでした。
 ところが聖書によれば、「初めに、神が天と地を創造した。」とあり、キリストによる最後の審判があります。時には始まりと終わりがあるのです。時は創造から審判に向かって突き進む矢です。聖書の「時」は直線的とよくいわれますが、厳密にいえば、始まりと終わりがあるのですから線分的です。2011年という年は、歴史の中にたった一度しかやって来ないし、今日という日は、ただ一度きりです。今年は特別な意味ある年であり、今日は特別な意義深い日です。ここに歴史が成立します。
 ところで、創世記1章は「時」のもう一面をも語っています。「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。」(創世記1:16)地球が一回りして一日、七回りして一週間、地球が太陽のまわりを一回りして一年が経ちます。月は三十日で満月と新月を繰り返しています。神は地球の自転と公転、月の満ち欠けを時計とされました。天体の空間的運動が、時の構造をなしているということはたいへん興味深いことです。「時」には確かに、このように円環的な側面があります。古代人ギリシャたちは、この「時」の一面をとらえたのでした。
 というわけで、聖書によれば「時」には線分的な側面と同時に、円環的な側面があります。「時」は繰り返しつつ、目的に向かって前進していく幾重もの螺旋構造をしているのです。レビ記25章の暦の記述にも時の螺旋構造が記されています。一年を七度繰り返して七年目は安息の年。安息の年を七度繰り返して、その翌年五十年目はヨベルの年で、ここで振り出しに戻ります。「時」には、今年は一回きりだという面と、繰り返しという面との両方があるのです。

3 「時」と私たちの人生

*緊張感と慰め
 「時」はその始まりから終わりに向かってまっしぐらに進んでいきます。長い歴史の中で今年という年は一回しかないし、今週は一回きりだし、今日は一回きりです。だから、私たちは新鮮な緊張感をもって新しい年に、新しい週に、今日という日に臨まねばなりません。
 それにもかかわらず、夜、床について「今日もだめだったなあ」と落胆することがあります。でも神はもう一度新しい朝をくださって「さあ。やり直すがいい。」と励ましてくださいます。週の初めの日に、また、年始に私たちは同じように、神から「さあもう一度チャレンジせよ」と励ましをいただくことができます。確かに、昨日と今日は違うし、先週と今週は違うし、去年と今年は違いますが、でも再スタートを許してくださるのです。過ちやすい私たちにとって、これは慰めではないでしょうか。

*不易流行
 俳諧を芸術として大成した芭蕉は、すぐれた俳句は「不易流行」なるものだと言いました。「不易」とは「変わらない」ことです。昔文房具屋さんで売っていた「フエキ糊」というのは、米糊に防腐剤を配合してかびないようにした糊でした。「不易」とは変わらざる伝統を意味します。他方、「流行」とは時代によって変わること、斬新さです。言い換えると、「不易」とは一なる原理であり、「流行」は多なる原理です。伝統と流行とが切り結んだところに散る火花、そこにすぐれた俳句が生まれます。俳句にかぎらず、トラディショナルな装いにワンポイント新しい工夫をしたり、定番料理に一工夫加えることにしても、この不易流行は生かされます。
 伝道の実践でも、不易流行の原理は有効です。コンテクスチュアライゼーション(文化脈化)と称して、時代と文化に合わせて福音の内容を変えてはいけません。「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」という福音は不易です(使徒20:21)。時代と文化に柔軟に適合させるべきは、福音を伝える方法です。私たちは不可変の十字架のことばを、時代と文化に合った方法を工夫して伝えていくべきだということになります。
 不易流行は、時の中に展開された「一と多」という神の摂理にかなった理念です。時代を超えて不可変のものと、時代ごとに変わるものと、この両方をわきまえて生きていく、これが神の「時」を生きる私たちのありかたでしょう。

*人生の岐路と三つの問い
 もう四半世紀も前、宮村武夫先生が私に、「人生の岐路に立つときには、神の御前で静まって、三つの問いを自分に発してみるとよい。」と教えてくださいました。
第一の問いは、「私にもできることは何か?」ということです。神が私をキリストのからだである教会のうちにお召しになった以上、何かかならず神のためになすべき務めがあるはずです。ですから、「私にもできることは何か?」とまず問います。そうすると、いくつかの可能性が見えてくるでしょう。
 第二の問いは、「私にしかできないことは何か?」ということです。神はキリストのからだの中に、多様な器官を備えられました。一つとして同じ者はないといえるほどです。だとすれば、主にお仕えするためには「私にもできること」の内に、「私にしかできないこと」を見つけ出すことが大切だということになります。
 そして、もう一つわきまえなければならないことは、私たちは歴史的存在であるということです。簡単にいえば、私たちは年を食っていく者なのだということです。そこで第三番目の問いは、「今ならできるが十年後にはできなくなっていることは何か?」ということです。
 これら人生の選択にかんする三つの問いは、神が世界を多にして一なるものとしてお造りになり、時の中に摂理していかれることに基づいています。これら三つの問によって、神が配剤なさる神の民の歴史の中で、あなたをどのように用いようとしていらっしゃるのか、その御旨に迫ることができるでしょう。