苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅱ 聖三位一体 

(本稿は、創世記1章から11章に啓示されているいくつかの主題をとりあげ、聖書全体の文脈のなかでその主題について思い巡らし、私たちが少しでも神を愛することに益するようにと書かれた「創造からバベルまで」の一部です。)


1 聖書における三位一体の教え
 「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1:26)神はこのようにおっしゃって、人間を造りました。不思議なのは、唯一の神がご自分をさして「われわれ」ということばです。唯一の神のうちには複数の人格があるようです。
 これと対応する新約聖書の箇所は、最後の晩餐席上での主イエス祈りです。「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)永遠の昔から父と子は御霊における交わりのうちに生きておられます。同じヨハネ福音書冒頭にことばなる神イエスについては「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。」とある通りです。
追記1>
古代教父ユスティノス(100?〜162?)は「ユダヤ人トリュフォンとの対話」62:1−4の中で、「この箇所によってわれわれは、神が数として区別された、理性をもつ何者かに向かって語っているということを確実に知る。」として、「むしろ、実際父から出、すべての被造物より先に生まれた方が彼とともにいたのであり、その彼に父が語りかけたのだ。それは御言葉がソロモンによって明らかにしたとおりである。つまり、まさに彼こそすべての被造物に先立つ根源であり、父から子として生まれた方であり、ソロモンが知恵と呼ぶ方である。」と言っています。また、同じく教父エイレナイオス(130−202)も「使徒たちの使信の説明」55で、創世記1:26を説明して、「父は不思議な助言者としての子に語りかけているのである。」と述べています。(以上、追記
 ヘブル語には「1」を意味することばが二つあり、ひとつは「エハド」であり、もうひとつは「ヤヒード」です。「ヤヒード」は、単純に「1」という意味で、例えば「あなたのひとり子イサク」(創世22:2)とか、「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返してください。」(詩35:17)と命の意味で用いられています。
 他方、「エハド」は、「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときにも用いられる場合があります。例えば、「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。」(出エジプトに26:6)とか、「ふたりは一体となるのである。」(創世2:24)などと用いられています。詳細は、一番下の<追記5>をごらんください。
 では、有名な「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命6:4)の「ひとり」はどちらのことばが用いられているでしょうか。ここで用いられているのはエハドなのです。「主はただひとりである。」という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性を内包する一性を示しうるエハドが用いられているのは意外です。三位一体を暗示するとまで断言はしませんが、興味深い現象ではあります。
 とはいえ、旧約において強調されているのは、やはり神の唯一性です。すぐ多神教に陥ってしまいがちな人間には、まず神の唯一性を知る必要があるからでしょう。新約にいたって、神のうちに三つの位格があることが明白にされます。大宣教命令に「父と子と聖霊の名によって彼らにバプテスマを授け」(マタイ28:19)というくだりで、「名」ということばは単数形です。父と子と聖霊がお一人であることが表わされています。


2 父と子と聖霊の関係

 第一に、絶対の愛の神であることと三位一体の関係です。神が絶対者であるということは、神が唯一であることを意味します。もし神に匹敵するものがあれば、その神は絶対ではなく相対者になってしまいますから。他方、神が愛であるということは、神は交わりの神であるということを意味します。万物が存在する前に、ただ神のみ存在したときも神が愛であったということは、神がご自身のうちに愛の対象をもっておられたということでしょう。アウグスティヌスは、神の三位一体を説明して、「愛する者(父)、愛される者(御子)、愛(聖霊)」と説明しました。こういうわけで、神が絶対であり愛であるということは、神が三位一体であることと密接な関係があります。

追記2>
 中世期にサン・ビクトールのリチャードは御子が御父から永遠に生れたことについて次のように言っています。
 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えな い。したがって、『愛情が愛(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」
さらに聖霊の発出について次のように言います。
 「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしもそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そ う。最善のかたに最もよいことを帰そう。
 故に、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する神の全能はどこへ行ってしまうであろうか 。」
(以上、追記2)
 第二に、父と子と聖霊の関係を学びましょう。父は神性の根源です。キリストは生むお方の「ひとり子」(ヨハネ1:18)として、語るお方の「みことば」(ヨハネ1:1)として、本体であるお方の「写し(かたち)」(コロサイ1:15)として、啓示されています。
 子は、父から永遠に生まれたお方であり、父のことばであり、父の写しです。しかし、それは子が被造物であるという意味ではありません。子も永遠の神です。コロサイ書において「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべての者より先に生まれた方です。」と、「造られたすべての者」と「生まれた」が対比されているのは、子は被造物ではなく、神性において父と同一であることを意味しています。人から生まれたものは人ですが、人が作った物は人でないのと同じです。神によって造られたものは被造物ですが、神から生まれたお方は神です。
 御霊は単なる力ではなく、生ける人格です。人格には知性と感情と意志がありますが、事実、御霊は語り(使徒8:29)、悲しみ(エペソ4:30)行動します。新約聖書は、聖霊を「神の霊」とも「御子の御霊」とも呼びます(ローマ8:9)。御霊は父と子から出ており、御霊において父と子は結ばれているのです。
 第三に、被造物に対する御業における父・子・聖霊の役割について学びましょう。三位一体の神はすべての御業において協働しておられます。創造において、「初めに神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よあれ』とおおせられた。すると光ができた。」(創世記1:1−3)とあります。ここに主宰者なる父と御霊とことばが登場しています。また、贖罪についても、父は受肉を計画して子を派遣し(ガラテヤ4:4)、聖霊が処女マリヤに働いて受肉が実現し(マタイ1:18)、イエスの公生涯の始まりに当たって父の声と、御霊の注ぎがありました(マタイ3:16,17)。子は、御霊によって、父に祈りつつその御旨のままに、十字架への道を進まれ、また、子は父が送ってくださった御霊によって復活したのです(ローマ8:11)。そして、御霊は子が成し遂げた贖いを私たちに適用してくださいます。
追記3> 
第四に、御霊が新約聖書において父の霊であるだけでなく、「御子の御霊」つまり、この歴史のなかに来られたイエス・キリストの霊でもあるとされていることは、現代的文脈においてとても重要なポイントです。というのは、現代は地球環境問題への関心から、「大地の霊」とか「母なる大地」という汎神論的な自然宗教が流行している時代であるからです。J.モルトマンは、創世記1、章2章の神の霊が、あたかも汎神論における母なる大地の霊とつながりがあるかのような物言いをしています。「この大地は、私たちの共通の環境であり、また、現実的な意味において『私たちの母』です(シラの40:Ⅰ)。」(『いのちの泉』p46)聖霊が「(父なる)神の霊」と呼ばれるだけであれば、汎神論との区別があいまいになってしまいますが、新約聖書は「神の霊」は同時に、「御子の御霊」であられるということを明らかにしているので、自然宗教における汎神論との区別がされるのです。
 第五に、まことの神に背を向けながらも、人の宗教的本能は神の絶対者であることを望みます。絶対者でなければ、頼るに値しないからです。しかし、神が絶対者であられるならば、人間にとっては超絶されているので私たちは神を知ることができません。私たちのもう一つの必要は、神がどのようなお方であるかを具体的歴史的人格において知ることです。しかし、過去においていかにすばらしい神的ご人格がいたとしても、それが過去に過ぎ去った人であるとするならばきょうという日に生ける神からの導きと力が注がれないとすれば、信仰生活は成り立ちません。この世のいかなる宗教も、これら三つの求めを同時に満たすものではありません。ただ三位一体の神を啓示する聖書の福音のみが、父において神の絶対性を啓示し、御子において人格としての具体性とを啓示し、かつ、聖霊において今日生きる力を与えるものなのです。
 「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れととこしえの主権は神のものです。」1テモテ6:14,15
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。・・・いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネ1:14,18
 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。」ヨハネ14:16

3 三位一体と信仰生活
 では、聖三位一体と、私たちの信仰生活とはどのようなかかわりがあるでしょうか。第一に、私たちは人間の知性の限界をわきまえることを学びます。三位一体の教理は、神は人間の知性では計り知れないお方であることを教えるからです。私たちは知性の限界を認めて、聖書が啓示するままに父と子と聖霊がそれぞれ完全な神であられ、かつ、神が唯一であることを信仰によって受け入れます。
第二に、神は三つの人格の交わりでいらっしゃいますから、神のかたちとして造られた私たちの信仰も孤立したものではなく、隣人愛において具体化されるものであることを学びます。神を愛するといいながら、身近な兄弟姉妹を愛していないなら、その愛は偽りです。
しかし、第三に、神は唯一絶対のお方ですから、私たちの信仰には神の前に独り立つという側面もあると知るべきです。聖なる神の前で、あなたの罪は、あなた自身の責任です。その事実を認めてこそ、イエス・キリストの十字架の贖いの尊さを悟ることができるでしょう。
<ブログ版追記4>
 第四。そもそも私たちが祈るとき、私たちは三位一体的に祈っているのです。私たちの御霊が私たちのうちに語りかけて祈りたいという願いを引き起こし、私たちは父なる神に向かって、御子の御名によって祈りをささげます。私たちの信仰生活は、三位一体的なものなのです。
 第五に、神が三位一体であられることは、教会が多様でありかつ一つであるべきことの根拠です。パウロは、コリント教会に次のように言い送っています。「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。 」(1コリント12:4−7)「御霊・主(イエス)・(父なる)神」の三位一体が、12章に展開される教会論の土台となっていることに気づくでしょう。教会においては、全体主義はよろしくないし、個人主義もよろしくない。個と全体、両方が生き生きとしてゆけるようにということがたいせつです。



追記5>
エハドとヤヒードの比較

1.旧約聖書におけるエハドの用例471のうち、モーセ五書の中では82回の用例がある。そのうち「多様性を内包する1」と解しうる箇所は下記の通り12回。そして、申命記の6:4.
Genesis 1:9
HEB: אֶל־ מָק֣וֹם אֶחָ֔ד וְתֵרָאֶ֖ה הַיַּבָּשָׁ֑ה
NAS: be gathered into one place,
Genesis 2:24
HEB: וְהָי֖וּ לְבָשָׂ֥ר אֶחָֽד׃
NAS: and they shall become one flesh.
Genesis 11:6
HEB: הֵ֣ן עַ֤ם אֶחָד֙ וְשָׂפָ֤ה אַחַת֙
NAS: Behold, they are one people,
Genesis 34:16
HEB: וְהָיִ֖ינוּ לְעַ֥ם אֶחָֽד׃
NAS: with you and become one people.
Genesis 34:22
HEB: לִהְי֖וֹת לְעַ֣ם אֶחָ֑ד בְּהִמּ֥וֹל לָ֙נוּ֙
NAS: with us, to become one people:
Genesis 41:5 
HEB: עֹל֛וֹת בְּקָנֶ֥ה אֶחָ֖ד בְּרִיא֥וֹת וְטֹבֽוֹת׃
NAS: came up on a single stalk,
Genesis 41:22
HEB: עֹלֹ֛ת בְּקָנֶ֥ה אֶחָ֖ד מְלֵאֹ֥ת וְטֹבֽוֹת׃
NAS: and good, came up on a single stalk;
Genesis 41:25
HEB: חֲל֥וֹם פַּרְעֹ֖ה אֶחָ֣ד ה֑וּא אֵ֣ת
NAS: dreams are one [and the same]; God
Exodus 26:6
HEB: וְהָיָ֥ה הַמִּשְׁכָּ֖ן אֶחָֽד׃ פ
NAS: to one another with the clasps
Exodus 26:11
HEB: הָאֹ֖הֶל וְהָיָ֥ה אֶחָֽד׃
NAS: together so that it will be a unit.
Exodus 36:13
HEB: וַֽיְהִ֥י הַמִּשְׁכָּ֖ן אֶחָֽד׃ ס
NAS: so the tabernacle was a unit.
Exodus 36:18
HEB: הָאֹ֖הֶל לִהְיֹ֥ת אֶחָֽד׃
NAS: together so that it would be a unit.
Deuteronomy 6:4
HEB: אֱלֹהֵ֖ינוּ יְהוָ֥ה ׀ אֶחָֽ seg type='large'>ד׃ seg>
NAS: is our God, the LORD is one!


2.ヤヒードは旧約聖書で12回使用されており、いずれも「ただ一つ」という意味であって、「多様性を内包する1」の意味では用いられていない。
Genesis 22:2
HEB: בִּנְךָ֨ אֶת־ יְחִֽידְךָ֤ אֲשֶׁר־ אָהַ֙בְתָּ֙
NAS: your son, your only son, whom
Genesis 22:12
HEB: בִּנְךָ֥ אֶת־ יְחִידְךָ֖ מִמֶּֽנִּי׃
NAS: your son, your only son, from Me.
Genesis 22:16
HEB: בִּנְךָ֥ אֶת־ יְחִידֶֽךָ׃
NAS: your son, your only son
Judges 11:34
HEB: וְרַק֙ הִ֣יא יְחִידָ֔ה אֵֽין־ ל֥וֹ
NAS: and with dancing. Now she was his one [and] only
Psalm 22:20
HEB: מִיַּד־ כֶּ֝֗לֶב יְחִידָתִֽי׃
NAS: from the sword, My only [life] from the power
Psalm 25:16
HEB: וְחָנֵּ֑נִי כִּֽי־ יָחִ֖יד וְעָנִ֣י אָֽנִי׃
NAS: to me and be gracious to me, For I am lonely and afflicted.
Psalm 35:17
HEB: מִשֹּׁאֵיהֶ֑ם מִ֝כְּפִירִ֗ים יְחִידָתִֽי׃
NAS: from their ravages, My only [life] from the lions.
Psalm 68:6
HEB: אֱלֹהִ֤ים ׀ מ֘וֹשִׁ֤יב יְחִידִ֨ים ׀ בַּ֗יְתָה מוֹצִ֣יא
NAS: a home for the lonely; He leads
Proverbs 4:3
HEB: לְאָבִ֑י רַ֥ךְ וְ֝יָחִ֗יד לִפְנֵ֥י אִמִּֽי׃
NAS: Tender and the only son in the sight
Jeremiah 6:26
HEB: בָאֵ֔פֶר אֵ֤בֶל יָחִיד֙ עֲשִׂ֣י לָ֔ךְ
NAS: Mourn as for an only son, A lamentation
Amos 8:10
HEB: וְשַׂמְתִּ֙יהָ֙ כְּאֵ֣בֶל יָחִ֔יד וְאַחֲרִיתָ֖הּ כְּי֥וֹם
NAS: it like [a time of] mourning for an only son, And the end
Zechariah 12:10
HEB: כְּמִסְפֵּד֙ עַל־ הַיָּחִ֔יד וְהָמֵ֥ר עָלָ֖יו
NAS: for Him, as one mourns for an only son, and they will weep

結論
エハドは単に「1」という意味で用いられうるが、時々「多様性を内包する1」という意味でもちいられることばである。他方、ヤヒードは「多様性を内包する1」という意味で用いられた例はなく、むしろ「唯一性」を意味するのみである。
申命記6:4における「主はただひとりである」ということばにヤヒードでなくエハドが用いられているのは、それが三位一体を指すと断言することはできないとして、やや意外ではあって興味深い現象ではある。
 霊感論から説明すれば、創世記記者は意図しなかったであろうが、聖霊は意図して暗示的にエハドをお用いになったという可能性がある。