苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで  I ―創世記1章から11章−

はじめに
 休刊になった「恵みの雨」(新生宣教団)2008年から2010年に掲載された原稿に加筆修正しながら、ブログにしばらく連載して行こうと思います。
 本稿は、創世記1章から11章に啓示されているいくつかの主題をとりあげ、聖書全体の文脈のなかでその主題について思い巡らし、私たちが少しでも神を愛し従うことに益するようにと書かれました。再録ですので、その後の学びの成果から若干筆を入れながら、掲載して行くつもりです。また順序は整理しなおそうと思っています。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」(ピリピ1:9−11)
<予定の目次>
Ⅰ 生ける愛の創造主
Ⅱ 聖三位一体
Ⅲ 「時」と人生
Ⅳ 「神のかたち」と三重職
Ⅴ 二つの創造記事―崇拝せず管理せよ
Ⅵ 食べる
Ⅶ 善悪の知識の木
Ⅷ 悪魔
Ⅸ いちじくの葉と皮衣
Ⅹ 下剋上
ⅩⅠ 二人のアダム
ⅩⅡ 神の御顔
ⅩⅢ 結婚の祝福と限界
ⅩⅣ 働くこと
ⅩⅤ 全被造物の救い
ⅩⅥ 原福音とアダムの信仰告白
ⅩⅦ 俺流の礼拝はだめ
ⅩⅨ 原罪と文明
ⅩⅩ 系図の読み方
ⅩⅩⅠ 大審判前夜
ⅩⅩⅡ 大洪水
ⅩⅩⅢ 再出発―食物・国家
ⅩⅩⅣ 契約と成就(その1)
ⅩⅩⅤ 契約と成就(その2)
ⅩⅩⅥ 権威と服従
ⅩⅩⅦ バベル



Ⅰ. 生ける愛の創造主

1 異教・哲学思想の神観
 一口に「神」といっても世界にはいろいろな宗教があり、それぞれの神観があります。真の神を正しく知るために、そういう異なる神観と比較してみたいと思います。多くの宗教があれば、その数だけの神観があるように思いがちですが、実際には、神観についてはごくかぎられた種類しか論理的にもありえません。神の数は多数か単数か、その神の世界に対する関係は超越的(=他者的)か内在的(=同一)かという指標で分類してみましょう。
 第一に多神論。まず世界があり、そこに徐々に生まれて来るのが神話の神々です。典型的には、ギリシャ神話、古事記などの神話の神観です。古事記に登場するイザナミは女神でありながら死んでしまったりしますし、スサノウは聖域に汚物を撒き散らして姉アマテラスを悲しませるような不埒な神です。ギリシャ神話のゼウスは、妻の女神ヘラの目を盗んで浮気ばかりしている不道徳な神です。能力的にも道徳的にも有限なのが多神教の神々です。ゼウスやアポロンなどは世界に介入する神々ですから世界に対して内在的ですが、エピクロス哲学の神々は世界に無関心で超越的だということができます。
 第二に汎神論(はんしんろん)と呼ばれる哲学的神観です。汎神論はその名のように、「すべては神である」という立場です。神は単一で世界に対して内在的です。あらゆる事物は、神々であれ人間であれ動植物であれ無機物であれ、すべては神の現われであるというのです。汎神論では万物と神は同時に存在するわけで、万物が存在しないならば神も存在しません。大乗仏教ネオプラトニズムスピノザたちの思想における神とはこういうものです。現在、世界中で流行しているニューエイジ・ムーブメントの教えも汎神論です。
「夏草やつわものどもが夢の跡」と芭蕉が詠むとき、人間の営みは限りがあっても「夏草」に象徴される自然は悠久であるという意識がうかがえます。つまり、自然を永遠の神的なものと見ているのです。日本人の世界観には汎神論的気分が漂っています。
 第三に理神論(デイズム)では、神は単一で世界に対して超越的です。理神論というのは、キリスト教の神観から合理主義者にとって不都合な部分を差し引いた神観です。時計工が時計を作ったが、その後、時計は自分で動いている、そのように、神が世界を創造したが、その後、被造物は自分で動いていて、神は被造物世界に介入はしないというのです。ですから、理神論においては奇跡も起こりえないし、啓示もありえないというわけです。世界の絶妙の秩序を見れば創造主の存在は認めざるをえないが、この世界を理性の力でもって支配するのは人間であって、神からも干渉されたくはないという十八世紀ヨーロッパの啓蒙思想の情念が理神論の背景にあります。代表的には英国のチャーベリーのハーバート、フランスの啓蒙主義思想家たちたとえばヴォルテール、ドイツのカントなどは理神論者です。
 ただしジェファソンやフランクリンの文書では、理神論(デイズム)という用語が有神論(セイズム)と同義で用いられていることもあります。また、啓蒙主義者たちはできれば世界から神の影を完全に拭い去りたかったのですから、十九世紀にダーウィンの進化論が登場すると早速これに乗り換えて、神の創造も否定して無神論に突き進んでしまいます。

2 聖書的な神観
 以上の三つの神観に対して、聖書的神観とはどういうものでしょうか。
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)と創世記冒頭にあるように、神が創造なさってはじめて天と地が存在するようになりました。世界が存在するまでは、ただ神のみが存在していたのです。世界が存在しなくとも、神は神ご自身だけで存在しうるお方です。主イエスは最後の晩餐の席上、御父への祈りでこう祈られました。「 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)また、ヨハネ福音書冒頭には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・中略・・・すべてのものはこの方によって造られた。」(ヨハネ1:1,3抜粋)と、万物の存在に先駆けて神が存在されたと述べています。真の神は何者にも依存することなく、ご自分で存在しています。これを神の自存性といいます。
 神の自存性は、多神教や汎神論の神観にはないことです。多神教の神話では世界がすでにあって、そこに神々が生まれてきたのですし、汎神論においてはすべてが神なのですから、神の存在と世界の存在は同時的です。
 また、神は、六日間で創造の最後の冠として人を造り終えると、人間に対して次のように啓示されました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1:28)超越者である神が被造物に語りかける啓示は、理神論の神観においてはありえないことです。また、神はエジプト脱出の時代、王国の危機のエリヤ・エリシャの時代、イエス使徒の時代には特に多数の奇跡を起こされました。神は通常、世界を治めるために被造物である自然法則を用いていますから、人間は実験や観察によって自然法則を発見し数式化もできます。神の被造物に対する御支配・御配慮を摂理といいます。けれども、神はときに通常の自然支配の法則を停止したり、強化したりして奇跡を起こします。奇跡は特別摂理と呼ばれます。こうした奇跡は理神論の神にあってはありえないことです。
 聖書を通して私たちに語りかけてくださる神は、汎神論の非人格の法則ではありませんし、また多神教の不道徳で無力な神々ではありませんし、理神論哲学者の「死んだ神」ではありません。万物を無から創造しかつ支配し、私たちの祈りに答えてくださる、生ける愛の神なのです。