苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

裸の恥の意識

 今回(12月11日)の説教では取り上げなかったが、裸を恥じるという意識については、アウグスティヌスが『神の国』で詳細に考察している。以下に、その要点を記しておく。
 この裸の恥の意識を理解するとき、人間を対神・対人・対被造物という三つの関係で捉えるだけでなく、もうひとつの対自分関係においても捉えることが必要であることに気づくであろう。自分で自分を意識しているという意味で、人間を対自存在というならば。
 以前に書いた講義ノート「神・人・世界・歴史」p27からの抜粋。全体はhttp://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/soseki.pdfを参照。

 「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)

 「目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」というのは、彼らが以前盲目だったという意味ではない。彼らはもちろん以前から裸であることを知っていたのであるが、それを恥じるべきものとしては知っていなかったという意味である。実際、彼らには恥じる必要がなかったのである。しかし、堕落後、彼らに裸を恥じる必要が生じ、恥じる意識が生じたというのである。
いちじくの葉について、よく考察しているのはアウグスティヌスをおいてほかにない。
 「この神が軽んじられたがゆえに、正義にかなった罰がその結果として伴ってきたのであった。すなわち、あの掟を遵守しておれば、人間は肉においてさえ霊的なものとなるはずであったが、いまやその霊においても肉的なものとなり、そしてその高慢によって自己自身に満足した人間は、神の正義のゆえに自己自身へ任されてしまったのである。」(神の国14:15服部訳p322)
アウグスティヌスのことばの背景には、ローマ書1:28「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので(神を知ることは無益を考えたので)、神は彼らをよくない思いに引き渡され、そのため彼らはしてはならないことをするようになりました。」がある。
 以前は神の加護のもとにあった人が、神に反逆した結果、自己自身に任された結果、人は自分で自分を統御できなくなり、悪魔の奴隷となったのである。
「人間は、彼自身においてあらゆる仕方で自己自身の力で統御するというわけにはいかなくなり、かえって、自己自身と不和となって、あれほど熱望していた自由のかわりに、罪を犯すことによってサタンと和合することとなって、そのもとに過酷で悲惨な隷従の生を生きるようになったのである。」p322
 悪魔の奴隷となった人間は、内的な不従順・混乱を経験する。すなわち、意志の下位にあるべき精神と肉が意志に逆らうようになって苦しみを生じるようになった。
 「一言でいうなら、罪にたいするあの罰において、不従順にたいして報復されたものは、まさに不従順にほかならなかったのである。じっさい、人間の悲惨とは、かれがなしえたところのことを欲しなかったゆえに、かれがなしえぬところのことを欲するという、自己自身に逆らう自己自身の不従順をおいて他に何があるというのであろうか。
・・・・・
 自己が自己自身にしたがわないかぎり、すなわち、精神および精神の下位におかれた肉がその意志に従わない限り、かれがなすことを欲しながらもなすことのできないものがどれほどおおくあるか、だれがそれを数え上げることができようか。・・・・」(『神の国』14:15服部訳p324)
 
 善悪の知識の木からとって食べてしまったとき、最初の男女はその腰をいちじくの葉でおおったとある。これについて、近代の聖書注解者たちはあまり考察をしていないのは、どういうわけだろうか。あるいは、キリスト教会において性的なことがらを語ることがタブーとされていたという背景があるのだろうか?十分に考察をしているのはアウグスティヌスである。アウグスティヌス神の国』第14巻15章―26章を熟読玩味されるがよい。
 いちじくの葉について、これは人が仮面をかぶるようになったこと、つまり、虚栄心、自己防衛本能と結びつけて理解する向きもある。それも事実であろう。しかし、文脈から推した直接的・正確な理解のためには、彼らが隠したのが、顔でなく、足でなく、腹でもなく、性器であったことに注目しなければならないであろう。欲情(リビドー)とのかかわりがあって、彼らは性器を隠したと理解すべきである。
 彼らは神に背く前には、おたがい裸を恥ずかしいと思わなかった。アウグスティヌスによれば、「それは、かれらが自分たちの裸に気づかなかったからではない。裸がまだ恥ずべきものとなってはいなかったからである。それというのは、欲情が彼らの自由な決定力とは無関係に身体のこの部分を喚起するようなことはなかったからだ。肉はまだ、ある意味で、それ自身の不従順によって、人間の責められるべき不従順を示す証拠を見せていなかったのである。」(『神の国』14:17服部訳p328)
 堕落前は、生殖器が意志の統御の下に服していたので、恥じる必要がなかったのである。しかし、堕落後、「この恩寵が除去されることによって、不従順が不従順という罰をもって叩き返された。そのとき、かれらの身体の動きに、ある種の淫らな好奇をそそるものが出現したのであった。それがもとで、裸であることが見苦しいものとなり、自己意識を生じ、かれらを狼狽させたのである。」(『神の国』14:17服部訳p330)恩寵がはぎとられて、情欲に刺激されて生殖器が意志と精神から独立して、ほしいままにふるまうようになった。裸であるお互いを見るときに、それにふさわしいTPOでもないのに、情欲が身体を突き動かすことゆえに恥じたのである。だから、これを恥じていちじくの葉をつづり合わせて腰帯にしたのである。「これ以後、すべての種族が恥部を隠すという習性を保持することになった。」

 アダムとエバの堕落の結果、秩序において下位にあるべきものが、上位にあるものをあなどり、秩序を破壊するという状況は、人の内面においてまず起きたということができる。「不従順が不従順という罰をもって叩き返された」のである。「心の中で情欲をもって女を見る者はすでに姦淫を犯したのである。」と主イエスが言われるとき、ほとんどの男性は罪を自覚しないではいられなくなった。それは、本来、神の権威の下に置かれていた人が、神の権威に逆らったことに対する呪いである。不従順に対して、不従順というのろいがかけられた。人は量るように量り返されたのである。
ローマ書1章21−32節には、神に背いた人間の罪のリストが出てくる。始めに上げられるのは、偶像崇拝である(21−25節)、次に、性的な倒錯(26−27節)、そしてもろもろの罪が上げられている(28−31節)。注目すべきは、性的な倒錯という情欲の問題が、偶像崇拝の次に特筆されていることである。性欲の問題は、おそらく人間にとって非常に根本的なことなのである。
 アウグスティヌスは『神の国』第十四巻十六章において「性的な欲情の悪」について、十七章では「裸の恥について」、」第十八章では「性行為における恥の感情について」・・・と論を展開する。

追記
 権威と服従という関係の崩壊は、夫と妻の関係、人間と地の関係にも及ぶ。