苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

規制と自由と・・・・・「ヨベルの年」に見る経済原則のメモ


  (小海小学校の裏の渓谷。なかなかいいでしょう。)


 「自由市場とグローバリズムは世界の流れだ」とは世の評論家たちがよくいうセリフである。神を畏れぬ評論家がそういうのは仕方がないが、牧師まで「自由市場は世界の流れだ」などというのを聞くと、「何を言っているんだ」と言いたくなる。この世の流れを肯定するだけなら、塩気を失った塩であろう。むしろ、聖書に基づいて、この世の流れがみこころにかなうものなのかどうかを吟味するのが神学者の務めであろうし、間違っているならばとりなし祈り、警告するのが預言者の任務だろう。聖書は経済原則についてなんと言っているのだろうか。そこで、今回は「ヨベルの年」にみる聖書的経済原則についてのメモ。

1.ヨベルの年に見る経済原則

 旧約聖書の「ヨベルの年」には、聖書的な経済原則が示されている。それは「適切な規制の下における自由」という経済の原則である。
 

「25:8あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。 25:9七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。 25:10その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。 25:11その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない。 25:12この年はヨベルの年であって、あなたがたに聖であるからである。あなたがたは畑に自然にできた物を食べなければならない。
 25:13このヨベルの年には、おのおのその所有の地に帰らなければならない。 25:14あなたの隣人に物を売り、また隣人から物を買うときは、互に欺いてはならない。 25:15ヨベルの後の年の数にしたがって、あなたは隣人から買い、彼もまた畑の産物の年数にしたがって、あなたに売らなければならない。 25:16年の数の多い時は、その値を増し、年の数の少ない時は、値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは産物の数だからである。 25:17あなたがたは互に欺いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記25:8−14)

 古代イスラエルにあっては、土地は神から与えられた相続であり、地境は神の定めであるとされた。民はその相続地を耕作したり放牧地として活用したりして生活の糧を得た。しかし、七年ごとの安息の年には休耕が定められていた。それは地力を維持するためでもあったろうが、それ以上に民が自力で生活をしているのだと思い込んで傲慢になったり疲れ果てたりしないためであり、神の恵みによって生かされていることを味わうためであった。
 そうした七年を七回くり返し、その翌年がヨベルの年であった。さまざまな経済活動をするうちに、人にはそれぞれ能力・才覚の違いと出会うチャンスの違いがあるので、50年も経てば営みの結果として「持てる者」(有産階級)と「持たざる者」(無産階級)とに社会は二分してしまうものである。そこで、神はヨベルの年になると、地境はもとに戻し奉公人たちは解放せねばならないと規制をかけた。貧富の格差が50年ごとに是正されるように定められたのである。つまり、私有財産権はある程度認められるけれども、それは資本主義者がいうように無限の権利ではなく、制限がかけられていたのである。このようにして、神はご自身の民の国が、強者が弱者を踏みつけ搾取する弱肉強食の野獣の国に堕落せぬようにと配慮されたのである。
 だが残念ながら、イスラエルはヨベルの定めを無視したために、結局、貧富の差が拡大した不公正な社会となり、神の怒りを買って滅ぼされてしまった。アモスの時代、北イスラエル王国は神のさばきとして滅ぼされてしまうが、その理由となった罪は偶像崇拝だけでなく、はなはだしい経済格差社会、不公正な社会を作ったことである。イスラエルは、もはや神の正義を証する祭司の王国、聖なる国(出エジプト19:6)ではなくなってしまったゆえに、神に滅ぼされた。

主はこう言われる、
イスラエルの三つのとが、
四つのとがのために、
わたしはこれを罰してゆるさない。
これは彼らが正しい者を金のために売り、
貧しい者をくつ一足のために売るからである。
彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ・・・」アモス2:6,7

「わざわいなるかな、みずから象牙の寝台に伏し、長いすの上に身を伸ばし、群れのうちから小羊を取り、
牛舎のうちから子牛を取って食べ、琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、
鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
それゆえ今、彼らは捕われて、捕われ人のまっ先に立って行く。
そしてかの身を伸ばした者どもの騒ぎはやむであろう」。アモス6,4−7

 南ユダ王国も同様である。イザヤは次のように警告している。彼の時代、賄賂が横行し、貧しい人々の訴えは取り上げられなくなっていた。

「わざわいなるかな、不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるす者。
彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、
寡婦の資産を奪い、みなしごのものをかすめる。
あなたがたは刑罰の日がきたなら、何をしようとするのか。
大風が遠くから来るとき、何をしようとするのか。
あなたがたはのがれていって、だれに助けを求めようとするのか。
また、どこにあなたがたの富を残そうとするのか。」イザヤ10:1−3(ほかにもミカ2:2、エレミヤ5:26−29参照)

 しかし、南北の王国は預言者の警告に耳傾けることをせず、ついに神のさばきにあって滅亡した。

 土地(財産)は神から賜った相続であるゆえに神聖である。しかし、同時に、それは神から託されたゆえに、土地の所有権は無限のものではない。人はこの神から託された土地を用いることができる。自由がなければ人々はたしかに意欲的に働かないから、神は彼らに自由な経済活動を許す。しかし、同時に、自由だけでは能力・機会などさまざまな理由から貧富の格差が大きくなり不公正な社会となってしまう。
 聖書は私有財産を否定しないが、同時に、私有財産の絶対化は許さない。経済活動にかんして言い換えれば、聖書は国家による計画経済を教えないし、資本主義者の主張する自由市場原理主義も教えない。聖書は「適切な規制の下での自由」という原理に立つ経済を教えている。それは、エデンの園で、神は人にすべての木の実を託しながら、善悪の知識という制限を設けられたことにも通じている。

2.市場の無法化

 ベルリンの壁が崩壊したとき、資本主義者は資本主義の勝利を叫び、謙虚さを失って愚かになった。市場原理主義が真理であるとされて、グローバリズムの掛け声とともに世界は自由市場経済によって席巻され、荒廃した。身近なところからいえば、日本列島全域において地方の町々は疲弊し、軒並みシャッター商店街となってしまった。地方の町の郊外に巨大資本の大規模店舗が出現して、町はシャッター商店街になってしまったのは、自由市場経済の原理によって大規模店舗出店について「規制緩和」した結果である。「規制緩和」とは実は「無法化」を意味する。
 東信州の町々には、かつてそれぞれ小さな電気屋があって、足のないお年よりも電気屋を利用できた。ところが、二十年ほど前、Y電機は東信州のあちこちに中規模の安売り店を作った。人々は中規模店に集まるようになり、数年で小さな電器店は軒並み倒産した。その頃合をみはからって、Y電機は大半の中規模店舗を閉店し佐久平に巨大店舗を開いた。結局、消費者たちは近所に電気屋がなくなってしまったので、選択の余地なく、ガソリンを消費して大規模店舗に行かざるを得なくなってしまった。車を運転できないお年寄りはほんとうに不便している。これは大規模チェーン店の常套手段である。
 労働市場の無法化もまた市場原理主義の結果である。戦前、労働者たちがヤクザによってタコ部屋に囲い込まれて、人権無視の搾取が行われたが、これを防ぐために戦後労働者派遣に規制がかけられて労働者の権利が守られていた。しかし、わが国政府が米国の年次改革要望書に唯々諾々としたがって労働者派遣の規制を緩和してきた結果、非正規雇用者数は1990年に20パーセントを超え、2003年には30パーセントを超え、今や35パーセントつまり三人に一人を超えている。いつくびを切られるかとおびえながら正社員の半分の給料で、ボーナスも社会保障も昇進もなく働かざるを得ないのが非正規雇用者である。労働市場が戦前の無法状態に逆戻りしてしまったのである。「規制緩和」といえば聞こえがいいが、実は、「無法化」のことなのである。こうした労働市場無法化の結果、わが国では自殺者が1998年以来3万人を超えたまま推移している。2008年版青少年白書では、10代後半の非正規雇率は約7割と報告されている。彼らにどのように将来に希望を持てというのか。こうした無法な状況について、「自由市場経済グローバリズムは世界の流れで、抵抗しようがない」などと肯定するのは神のしもべのすることであるとは思えない。Wikipediaで「非正規雇用」を見よ。
 内橋克人は米国での航空機運賃の値上げも、市場原理主義の結果としてレポートしている。市場原理に立てば、自由競争が行われるので商品の値段が下がって消費者の利益になるといわれる。たしかに目先はそうである。しかし、少し長い目で見ると逆である。(悪魔の提供する安易な道はたいてい、目先良くて、長期的に見ると悪いのであるが、人は欲にひかれて悪魔の誘惑に陥ってしまう。)米国の航空機業界の規制が撤廃された結果、航空機会社が乱立して値下げ競争となり、一時は、航空運賃は劇的に下がったが、しばらくすると資本力の弱い会社はばたばたつぶれて行って、結局、資本力の強い会社だけが生き残って寡占ないし独占状態となった結果、値段がつりあげられても、消費者は選択の余地がなくなってしまった。
 単純なことである。要するに自由市場経済というのは、弱肉強食の無法経済なのである。北斗の拳で見るように、無法の荒野で生き残るのは、ならず者、強者のみである。強者は「自由市場経済こそフェアなやり方だ」と叫ぶのだが、それが強者に都合がよいからというだけのことである。プロゴルファーがアマチュアゴルファーに、「ハンディなしで賭けゴルフをしましょう、それがフェアじゃないか。」というようなものである。
 このたびのTPPは、「パートナーシップ」などと例の如く偽善的な名が付けられているが、実際には強者が貧者を踏みつけ搾取する弱肉強食の無法経済圏を出現させるだけのことである。この無法経済圏のなかで大国は小国を貪り、大企業は中小企業を貪り、都市は地方を貪り、富者は貧者を貪り、強者は弱者を貪ることになる。そして、やがてこの無法経済圏は神の裁きを受けて破綻するであろう。
 それは、「適切な規制の下での自由」という聖書的な経済原則を踏みにじって、「適切な規制」をおろそかにし、自由な経済活動のみを絶対化・偶像化した結果なのである。

「18:1この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。 18:2彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。 18:3すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』。
18:4わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。』」黙示録18:1-4