苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

おとうさんのような牧師

 


 昨夜おそくまで東京で用事があって、教団事務所に一泊してきょう昼すぎに帰宅した。帰宅して昼食をとりながら、家内が昨日小海駅で見送ったお二人のシンガポールの姉妹たちの話をしていた。「お二人とも泣いていたのよ。・・・私も涙ぐんだけれども。」と。
 なぜこんなにも親しい間柄であると感じてくださっているんだろうねと家内にいうと、家内が「キャロラインさんは、前に来られたときに、あなたのことをお父さんのような牧師と思っているとおっしゃったじゃない。」と言う。
 「ええ!お父さん?」と驚いてしまった。そういえば、四年ほど前再来日されたとき、そんなことをおっしゃっていたような気がする。なんで驚くかというと、キャロラインさんは筆者よりも多分十歳くらい上の方だからである。
 考えてみれば、11年前来日されたとき、彼女はイエス様を信じて洗礼を受けて間もないクリスチャンだった。初めてのチャレンジという気持ちで、日本に伝道奉仕に来られ、若者たちのグループの中で緊張気味でいらっしゃるとお見受けした。そうして、一週間朝から晩まで山の中の集落を、一緒に巡り歩いてトラクト配布をしおわったとき、リラックスして喜びに輝くお顔になっていらした。
 このミッション・トリップの経験は彼女にとって、とても大きなことで、その数年後には長年勤めた電話会社を早期に退職して、クリスチャンボランティアとして役に立つために、外国人に英語を教える資格を取得して、ネパールやカンボジアやタイなどの子どもたちに英語教育を通じて福音を証してこられたのである。そういう報告を私にメールで送ってくださってきた。・・・なんで、こんなに連絡をくださるのかなあと思っていたら、私はお父さんと思われていたのだった。
 たぶん、彼女がシンガポールで属している教会は数百人規模の教会なので、牧師や牧師家族との交流というようなことは、あまりできないことなのだろう。洗礼を受けてまもない彼女が神様からのチャレンジだとして受け止めて、出かけた異国の山奥の借家のリビングで開拓伝道している教会の牧師とその家族と交流したことは、彼女にとって特別の経験だったのだ。それで、私は「お父さん牧師」になってしまったのだろう。そう考えると、「そうか、お父さんか・・・」と思った。