苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を知ること、神を愛することの分離

(1992.10.10 横浜上野町教会修養会にて)・・・ずいぶん若い日の生硬な文章で、恥ずかしいですが、そのまま載せておきます。

「私は祈っています。あなたがたの愛が、真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真に優れたものを見分けることができるようになりますように。また、あなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神のみ栄えと誉れが現わされますように。」ピリピ1:9−11



「神を愛するための神学」なぜこのことにこだわるかをお話することから始めたいと思います。「神を愛するための神学」と申しますからには、私の念頭には「神を愛さない神学」がある、あるいはありうるという懸念があるということです。それは、素朴なかたちで私の体験から始まり深まって来た問題意識でした。

 私がイエス・キリストというお方を印象深く知った初めての経験は、高校三年の夏休 み、ある機会があって映画『塩狩峠』を見たときです。雪の中で一人の伝道者がルカの福音書23章の十字架の主の祈りを引用しました。「父よ。彼らをゆるしたまへ。そのなす所をしらざればなり。」衝撃でした。自分を軽蔑し、いのちを絶とうとするその人たちのためにゆるしを乞うイエスというお方の姿が心に刻まれました。その秋、身辺に痛ましい事件があり、「私はなぜ生きなければならないのだろうか、生きる目的はいったいなんなのであろうか。」と捜し求めざるをえなくなっていたのです。浪人して受験勉強をしていても、何のために生きていくのかという問いは私を押えつけるようになりました。

 そんななかで一人の牧師に会いました。熱心なカルビニストでした。この牧師はこのように言われました。「私が生きているのは神の栄光のためであり、私が神を信じるのもまた、神の栄光のためです。」

 そして、浪人時代の終わりの三か月、教会に行き始めて私は『ウエストミンスター小教理問答』に出会いました。

「第一問 人の生きる主な目的はなんであるか。

 答 人の主な目的は神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことである。」

 私は驚き、狂喜しました。これが私の生きる道であると確信しました。これが私が捜しているものであると。

 その後、しばらくして大学入学となりました。私の心は傲慢の極みに達していました。私には周囲の学生たちどころか教授たちを睥睨して、「無目的な人生をおくっている人たちだなあ。ぼくは神の栄光のために生きているのに。」いわばそういう感情でありました。さらに同盟土浦めぐみ教会にまいりましても、私の心はその教会の礼拝の様子、祈りのありさまなどなど一つ一つ違和感が あってさばいていました。当時のことを思い出すと赤面するばかりです。転機が訪れました。その夏、神戸に帰省してあの教会の修養会に参りました。その修養会は実に愛に満ちたものでした。で、私は神様のお取り扱いを受け、自分の内に高慢があり、多くの兄弟姉妹をさばいてきたこと、その罪を知りました。そして、頭に入っていたキリストの十字架は人類の罪のためであったという教理が、私にとっての現実として心にはいって来たのでした。

 「人の主な目的はなんであるか。人の主な目的は神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことである。」これは、まったくすばらしい、宣言であり、告白です。けれども、その前に、あるいはそれと同時に知らなければならなかったことは、私は、その人としての目的にはまるでかなわない傲慢な罪人であること、そして、その罪人である私のために主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてください。彼等は何をしているのか、自分でわからないのです。」と祈って下さったという事実でありました。

 このような素朴な経験を通して、私は「神を知る」ことと「神を愛する」ということとの間にどうしてへだたりが生じるのであろうか、そのへだたりに橋を渡すものはなんなのかということを問題意識として持つようになりました。また、昨日学びましたことばでいえば、教理的な神知識は、どうしてしばしば、霊的生命を欠くのか、霊的生命を豊かに育みつつ教理的に神を知ることはどうしたらできるのかということです。ですから、私がもし神学というものをするならば、それは「神を愛するための神学」でなければならないと祈るようになったのです。冒頭のピリピ書のことばは、愛が真の知識(エピグノーシス)によって豊かになるといいますが、まさにそれを願うのです。

 私は、この問題をパスカルの『パンセ』とアウグスティヌスの『告白』を学ぶなかで、解決の道を示されてきましたので、ところどころ引用をしながら、お話を進めたいと思います。

 アウグスティヌス(354-430AD)  キリスト教教父。西洋の教師と呼ばれ、カトリックにもプロテスタントにもまた、一般思想世界にも影響絶大。敬虔な母モニカをもちながら、彼は若い日にはマニ教に走り、修辞学教師として出世を望むが、悪と罪という問題意識からネオプラトニズムに進み、そして、アンブロシウスの影響下にキリスト教徒となった。『告白』はその自伝的な内容と、神学的・哲学的考察を含む。以後北アフリカのヒッポの司教として活躍し。ネオプラトニズムの改造により、基督教神学を構築。

 ブレーズ・パスカル(1623-62)  数学者・物理学者・宗教哲学者。ジャンセニスムという復興アウグスティヌス主義の ポール・ロワイヤル修道院の導きで、決定的な回心。『パンセ』はかれの構想した「キリスト教弁証論」の草稿。


1.神を知ることと神を愛することとの分離は神学につきまとう罠である
 神を知ることと神を愛することとの分離という現象は、一人私だけの特殊な問題でありましょうか。もし、そうであるとしたらこんなことを主題として据えて論じる必要はないでしょう。私にとっては重大な問題であっても、多くの人にとっては問題ないでしょう。けれども、どうもそうではないようです。

 聖書の専門家であり当時だれよりも多く正確に神知識をたくわえていたパリサイ人たちが、実は神を愛してはいなかったのでした。彼らが「見える」と言わなかったら、彼らの罪は軽かったのです。彼らが神を知らなかったなら、彼らが神を愛さなかったという罪は軽かったのです。しかし、彼らは神を知っていながら神を愛しませんでした。それゆえ、彼らの罪は重いのです(ヨハネ9:39−41)。

 また、ギリシャ的な合理主義の影響を受けた祭司階級のサドカイ人たちも、同様に「あなたがたは神の知からも神のことばも知らない。」とイエス様は断じられました。

 また、使徒パウロギリシャ文化のもとにあり知性を誇るコリント人たちに向かって言います。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を立てます。」1コリント8:1

 また、パスカルは言います。

 「ああ、神を知ることと、神を愛することとの間には、なんと大きなへだたりがあることだろうか。」(L377,B280)

 神を知ることと神を愛することの分離という問題は、神学にとって本質的な(つまりきっても切れない、あるいは、つねにつきまとう)罠だということではないでしょうか。「神学校にやると燃えていた伝道意欲がなくなるから、献身者を神学校になど送るな。」などと、時々乱暴な神学無用論、神学校無用論が論じられるには、一理あるのです。

 私の知るかぎりでは、この「神を知ること神を愛することとの分離」という事態について、自己の経験を、聖書によって解釈することを通して、自覚的にかつもっとも切実に告白し、正確に記述しているのは、アウグスティヌス『告白』です。

 彼がキリストにある救いに至るまでの半生の根本的課題は悪と罪の問題でありました。彼にとって悪と罪の問題は世界観の問題であり、かつ、実存的な(つまり生きるか死ぬかの)問題でした。彼は若い日にマニ教に入っていたのですが、それはマニ教善悪二元論をもって悪の問題について合理的解釈を与えるかのように思っていたからです。ところが、彼はマニ教の教師フォルナルツスに会って実際に質問をしてみると、なんら解決がないことを知るに至り、新たな道としてネオプラトニズムを求めるようになりました。ネオプラトニズムというのプロティノスという哲学者を代表者とする汎神論の宗教的哲学でありまして、一者(το εν)から万物が流出して一切あるというものでした。そして、人間の救済はこの一者との合一にあるとするのです。合一のために神秘的な瞑想により、内面に深まっていく方法によって、肉体から魂へ、魂から霊へと高まっていき、ついに内なる神と一体化するというのが、ネオプラトニズムの救済の道です。そして、これが浄化の道であるとされていました。今、流行のニューエイジの瞑想と同じです。

 この立場の場合、悪とは何であるかというと、善の欠如相であるということでありました。悪はあるものではなく、善がないことが悪という状態であるという説明です。存在の中心である一者から遠ざかっているほど、存在は欠如しているわけですから悪であり、一者に近づくほどに善へと向かい、一者と一体になれば、善は完成するわけです。

 ネオ・プラトニズムによってアウグスティヌスは知識の面においては神を知ったというのですが、味わうことができません。神を知るのですが、神を愛するにいたりません。アウグスティヌスは、自分が神を知るにいたったにもかかわらず、神を愛そうとはしないという状態にあることに驚愕します。

 「これまで私は、自分が世をさげすんであなたに仕えないのは、まだ真理を確実に認識していないからだと考え、いつもそれをいいわけにしてきましたが、もうそのいいわけはきかなくなりました。なぜなら、真理はもう確実に認識されてしまったのですから。しかも私は、まだ地にしばられて、あなたの兵士として仕えることを拒んでいたのです。」 (『告白』8:5:11)


2.神への愛と神知識の分離という事態に聖書の光を当てる

(1)御言葉
 神知識と神を愛することとが隔たっているという人間の現象について、聖書は何というでしょうか。それは、神の怒りの啓示であり、アダム以来の人間の罪の姿なのです。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対し て、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは自分は知者であるといいながら、愚かな者となり、不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」ローマ1:21−23

 この箇所の言明していることがらのポイントは以下の二点です。

1.神は被造物を通して神について知りうることを明らかにしていらっしゃり、人間はこの啓示によって、神を知ることができます。だから、人間は神を知らないという弁解の余地はないのです。

 自然啓示は内的自然と外的自然による啓示です。外的自然とは月星太陽、花などなどもろもろのいわゆる自然を通してその創造主である神の知恵を知らされるということです。内的自然とは、ローマ書2章15節に見るように、人の内の良心(善悪の識別規準)に刻まれた神の律法です。これらによって、人は神を知ることができます。

2.しかし、自然啓示によっては、人は神を知りながらも神を神としてあがめず、感謝もしない。つまり、神を知りながら、神を愛さない。

 己は神を知っていると誇りながら、神を愛さない人間は、神の代わりに神ならぬものを神としてあがめるという知性の暗さと倒錯に陥っているのである。これは、己の知性を誇る人間に対する神のさばきであり、神の怒りの啓示である。

 主イエスが次のように言われたことも同じことを意味しています。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。』」マタイ11:25

 パスカルは、こうした事態についていいます。

イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを論駁す。哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。・・・・なんということか!彼らは、自分では神を知っていて、しかも人々が神を愛するようになることだけは好ましくないと考え、人々が哲学者を愛することで満足してくれるように願ったのだ!」(L142,B436)

 どうして「賢い者や知恵ある者」、あるいは「哲学者たち」の神認識は、知性と愛とが分離してしまうのでしょうか。こうした事態には二つの原因があります。


(2)第一は、自然啓示による神認識の方法は直接的・抽象的であること。
 「キリスト教神学者たちが、造り主なる神の神学を抽象的・直接的に考案しようとした場合には、たとえ彼らがこの高き神を、どのような畏敬をもって考え・また語ろうとしても、いつも迷路に踏み行なったのである。」(K.バルト『教義学要綱』p122)

 被造物を介しての啓示によって創造主なる神を抽象的・直接的に考察しようとしたところに、賢い者、知恵ある者、哲学者たちの神認識の問題点があるのです。こうした主旨のことはすでにカルヴァンが『基督教綱要』第一編で詳しく論じています。ただ、ひとまとめにした表現としてはバルトのものが便利なので引用したのです。抽象的・直接的に神を知ろうとはどういうことでしょう。

 直接的に神を知るというと、一見すると神に直面して知るかのような印象を受ける表現ですが、そうではないのです。ここに言う意味は、神の特別啓示である聖書によらず、自然的理性によってなす神認識ということです。これは、スコラ哲学がしようとしたことでした。「この書物の目的は、カトリックの信仰が表明している真理を鮮明にすることであるが、自分は自然の理性に、自然の光に依拠して議論を進めたい。なぜなら異教徒は聖書の権威を受け入れないからである。・・・ところが自然的理性では信仰に関する究極的な部分を論証することはできないが、ある部分は論証できるだろう。たとえば自然的理性は神の存在や魂の不死性を論証することはできるが、三位一体や受肉最後の審判のごとき教義は証明できない。」(トマス『異教徒論駁大全』)内なる自然つまり理性によって営む神学なので、自然神学と申します。こうした時、みな迷路に迷い込んだのです。

 それは、具体的・現実的な神でなく、抽象的・観念としての神にすぎなかったからです。具体的・現実的に神を知るならば、人はホレブのモーセや、神殿のイザヤや、イエスを舟にお乗せした漁師ペテロのように、偉大な神の御前におののきつつ、この神をあがめないではいられません。ところが、そうならないのは、彼らが知る「神」が現実の神ではなく、抽象的な観念としての神にすぎないからです。現実には存在しない、ただ頭の中の概念操作によって作られた概念は、人は生き方を変えません。

 たとえば、一人の若い女性が結婚相手の理想の夫についていろいろと夢を思い巡らしているとしましょう。この女性は、自分の好みの顔だち・性格・身長・年齢・収入などなどについていろいろ思い巡らします。そういうことを思い巡らしても、その女性自身の生き方には別に影響は起こってきません。その勝手に思い描いた男性のために自分の愛を捧げるということもありません。責任ある決断を迫られるということもありません。それは観念としての新郎にすぎないからです。

 同様に、堕落した人間にとって自然啓示による神認識は、こういう抽象的神認識になってしまうのです。それゆえ、「神」を知ってもその神をあがめることも感謝することも悔い改めることもなく、かえって、そんなすばらしい神を考え出した自分を誇るのです。


(3)第二の原因は知者の神認識は高慢を助長するということ。
 では、どうして人間は神を知りながら、神を愛さないのか。その人間は、己の知を誇っている。傲慢にふくれ上がっているからです。傲慢という原罪。これが、神を神として知りながら、神を愛しない根本的な原因です。

 アダムは始めに神の似姿として創造されました。ところが、彼は神の戒めの下にあることをよしとせず、自らの判断を神の戒めに優先するものとなりました。彼は善悪の知識の木から取って食べました。この木がどうして「善悪の知識の木」と呼ばれるかについては、釈義的にいろいろな見解があるようでありますが、私が理解するところでは、アダムが神の戒めの外にあって自ら何が善であり、何が悪であるかを決定することができるという立場を取るようになったということ、つまり、神ぬきに自らの道を選び取ろうとした理性の自律という思い上がりの罪です。これが「神のようになろう」という罪です。(参照『講座』「堕落した人間」(1))

 神を観念的に知ると、人はどうして傲慢になるのでしょう。それは、偉大な神を考え出した自分はなんと偉大であるかと思い悔い改めないからでしょう。そして、神を知りながら神を愛さないことのゆえに、断罪されるのです。自然啓示の機能は、律法同様罪を明らかにする断罪的機能です。

(明日につづく)