苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

うちのポチは天国に行けるのでしょうか?


松原湖バイブルキャンプにあったきのこ。たぶんホコリタケといって食べられるはずです。でも、おいしいかどうか知りません。あるいは、笑いころげるかもしれません。)


 牧師をしていて、時々聞かれるのは、愛犬家や愛猫家のクリスチャンから、「うちのポチは救われるのですか」「うちのミケは・・・」ということである。犬というのは今日ではかわいいペットだが、古代イスラエルの生活のなかではイゼベルの死肉をあさったいやしい動物とされていて、「聖なるものを犬に投げるな」などといわれている。猫はそもそも聖書に出てこない。外典に一箇所あるだけ。猫は干支にも出てこない不思議な身近な動物である。
 では、どう考えるか?聖書全体の救いの歴史から広く考えよう。
 創世記第三章によれば、被造物のかしらであるアダムが神に背いて堕落した結果、被造物全体が呪われてしまったとある。そして、ローマ書8章によれば、現在、被造物は滅びの束縛の下に置かれていて呻いているとあり、神の子たちの現われを待ち望んでいるという。つまり、人間だけではなく他の被造物も滅びの束縛から解放されるというのである。そこには当然犬も猫も含まれる。それは、人間が神と被造物との契約における代表であるという理由からであろう。
 では、創造から再臨の時に至るまでに存在した全被造物が贖われる万物救済論を聖書は教えるかといえば、それは違うだろう。ノアの洪水のとき、神の選んだ動物たちだけが自分たちで箱舟の中に入って行ったとある。ノアを代表とする神と被造物との間の契約のうちに入れられている動物たちが大洪水から救われた。
 また、逆の例もある。ヨシュアの時代、アカンが罪を犯したとき、アカンの家族だけでなく、彼の家畜までも滅ぼされた。アカンを契約の代表とする一つの契約共同体に含まれるものとして、神はアカンの所有する家畜をも取り扱われたわけである。
 以上から考えると、「ポチのためにも、あなたはちゃんとイエス様に忠実な信徒として歩んでください。」とお答えするのが聖書的に正しいと思われる。