苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

裸を恥じる

  人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。  (創世記2:25−3:7)

 さらにさかのぼって、では、なぜ人は裸を恥じるようになったのかということについて。
 最初、人とその妻はたがいに裸を恥ずかしいと思わなかった。だが、神の戒めにそむいて禁断の木の実を食べてしまったとき、彼らのうちに裸を恥じる思いが生じ、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。彼らは何を恥じたのか。
 彼らはその口で善悪の知識の木の実を食べたのであるから、その口をいちじくの葉っぱで隠せばよいものを、実際に彼らが隠したのは口ではなく、腰すなわち性器であった。なぜか。なぜ人は性器を恥じるのだろうか。アウグスティヌスは次のように言っている。
 「人間は、かれ自身においてあらゆる仕方で自己自身の力で統御するというわけにはいかなくなり、かえって、自己自身と不和となって、あれほど熱望していた自由のかわりに、罪を犯すことによってサタンと和合することとなって、そのもとに苛酷で悲惨な隷従の生を生きるようになったのである。」「罪にたいするあの罰において、不従順にたいして報復されたものは、まさに不従順にほかならなかったのである。」「自己が自己自身にしたがたないかぎり、すなわち、精神および精神の下位に置かれた肉がその意志に従わないかぎり、彼がなすことを欲しながらもなすことのできなもののがどれほど多くあるか、誰がそれを数え上げることができようか。精神はその意に反してあまりにしばしば不安で掻き乱されるのである。」(『神の国』第15巻15章)「この恩寵が除去されることによって、不従順が不従順という罰をもってたたき返されたそのとき、かれらの身体の動きに、ある種のみだらな好奇をそそるものが出現したのであった。それがもとで、裸であることが見苦しいものとなり、自己意識が生じ、彼らを狼狽させたのである。」(同17章)
 要するに、堕落前は精神の下にあるものとしてコントロールすることができた肉体、特に性器が、神にそむいたときに精神の意志するところに反して勝手気ままに振舞うようになってしまったため、裸が恥ずべきものとなってしまったというのである。人間の精神が神の権威の下にへりくだっていたときには、肉体も精神の統御の下にあったのだが、人間精神が神の権威に反逆したとき、精神もまた肉体によって反逆されてしまったというのである。
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 」(ローマ7:15)