苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いちじくの葉と皮の衣


  秋明菊シュウメイギク



「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」創世記3章21節


 カインとアベルは、おそらく父母から神へのささげものは動物の血を流すものでなければならないと教わっていたのではないかと、昨日書いた。少しさかのぼって、その根拠と考えるところについてメモしておきたい。

a.神が手ずから
 このことばは、いわゆるアンスロポモロフィズム(神人同形論)のように映るので、それを警戒して、神が、あたかも毛皮商人や仕立て屋のように、獣を殺し毛皮をなめして縫い合わせて皮の衣を作ったということではなく、そうすることを人間に許可したという意味であるとカルヴァンは解釈し、おそらくカルヴァンの線にのっとってカイルとデリッチやアアルダースも同じことを言う。おそらく神が皮なめしや仕立てをしたのでは、尊厳にかかわるという心配をしているのだろう。また、「神が霊である」という理解からの推論であろう。
 たしかにそこには人間としてはアダムとエバしかいなかったのであるから、皮衣を製作することが出来るものがいるとすれば、神ご自身か、この二人の人しか存在しなかったわけである。そして、神が自分で動物を殺し、皮をはぎ、これをなめし、縫製したというのを文字通り取れば、難しいこともなくはない。
 しかし、このような解釈では、「神が人とその妻とのために皮の衣を作って、彼らに着せられた」という、あたかもこれから困難な旅に出ようとする子どもたちのために、母が着物を調えている姿が目に浮かぶような驚くべき恵み、その恩寵的表現が台無しになってしまう。
 すでにここまでの創世記2章、3章の表現を読めば、全体として神がいとも近きお方として、園を歩いて回っていらっしゃるようすが記されている。先に、「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。」(創世記3:8)と、あたかも夕涼みに懐にうちわで風を入れながら、園を歩いて二人のところに様子を見に来られたかのような風情の主の姿の描写がある。なんという大胆な恩寵的・下降的な表現だろうか。同じ文脈のなかにあるここ3章21節もまた、神がどのようにしてか、手ずから彼ら罪人のために皮衣を作ってくださったという表現をそのまま読めばよいのではないか。後に、人となられる御子の予型を読んでよいのではないか。
 創世記全体を考えて見ても、主がふたりの御使いとともに、自らも人の姿をしてアブラハムを訪れたという記事もあり(18章)、あるいはヤコブとすもうを取ったりする主の姿も見られる(32章)わけであるから、上のような解釈は創世記において決して唐突ではない。まして堕落以前、神と人とはこれほど親しい交わりがあったのであるし。
 主なる神が皮衣を作り、彼らに着せてくださったということを、すなおに読みとってこそ、先に人が自分の手でいちじくの葉で腰おおいを作ったこととのコントラストが明瞭になろうと言うものである。

b.血が流されて
 「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」へブル9:22
 カルヴァンは、それが麻やウールではなく荒荒しい皮衣であったわけについて、彼らに自己の下劣さを思い出させるためであったと言い、ぜいたくを戒めているというような道徳訓をここから読み取っているが、それはいかがなものか。もちろん彼の聖書講解が単なる聖書研究ではなく、日々、目の前に集うジュネーヴの聴衆を前になされたことを考えれば、こうした適用もあながち否定はすべきではないだろう。
 しかし、主要なことは、ここには、文脈的に見て、あきらかに人間が自分の裸の恥を覆うために、自作したいちじくの葉の腰おおいとのコントラストがあるという点である。ちなみに旧新約聖書に一貫して「裸」と「恥」ということばは対になって出現する。裸を誇るのはギリシャ、ローマ文化の名残であるが、聖書的啓示の伝統においては、堕落以来、裸は恥ずべきものとされる。
 恥を隠すために人間が作るものはすぐに破れてしまうが、神が作ってくださったものは長持ちする。それは単に着物として長持ちするという以上に霊的祭儀的な意味が読み取られるべきであろう。ここにキリストの贖いの予型をただちに読むのは、exgesus読み取りでなくeisgesus読み込みであるとして一蹴する人々が多いだろう。
 しかし、あらためて文脈をよく考えてみよう。このときアダムとエバのために初めて動物の血が流され――というのは彼らはこのときまだ肉食をしていなかったから――、その衣で彼らが恥ずべき裸をおおったとき、彼らにはそれは大きな衝撃であったろう。自分たちの恥ずべき裸を覆うには、罪なき生き物の血が流されいのちが求められるのだと認識させられたのだ。「それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、殺されたのは自分ではなくこの動物だったとき、その動物が自分たちの身代わりとなったということを彼らは悟らざるを得ないであろう。この衝撃的な出来事に、こうした意味を読み取ろうとしない方がむしろ不自然ではなかろうか。人間が自分の恥を隠蔽するために自分でなすわざを象徴するのが、いちじくの葉であるとすれば、神が人の恥(罪)をおおってくださるみわざを象徴するのが、血を流して用意された動物の皮衣である。

 聖書全体に啓示される救いの歴史という文脈でこのことを考えてみよう。罪深い裸の恥をおおう衣は、Ex28:40-42「裸をおおう亜麻布のももひき」というふうに祭司の服として、そして、新約にあっては「キリストを着る」(ローマ13:14、ガラテヤ3:27)「天からの住まいを着る」(2コリント5:3−4)と展開する。そして殉教者たちに与えられる「白い衣」と(黙示録6:11)。このように見てくると、神が人のために動物を犠牲にして血を流して彼らの衣を作ってくださったということを、後のいけにえの儀式の予型と見、さらにその延長線上にメシヤの十字架における血による罪の贖い、キリストの賜る義の衣の予型と見ることは、荒唐無稽な話ではなく、むしろ穏当な読みであると考える。
 C.ホッジは、「人間はみなアダム以来、自力救済主義者となってしまった」と言った。人間の作ったあの無花果の葉の腰覆いは自力救済主義の象徴である。しかし、人のわざによる罪と恥のおおいは、小一時間もすれば強い日差しにしおれてしまうようなものでしかない。イザヤがいうように、人間の義は、神の目にはボロ雑巾にすぎない(イザヤ64:6)。しかし、神が恵みによって血の贖いによって人を罪から救って、義の衣をもっておおってくださる。救いにおいて、主語は人でなく神なのである。「神が皮衣を作り、彼らに着せてくださった」。