苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮きよめ・・・・・キリストというお方

 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通りぬけて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの父の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」マルコ十一:十五―十八

 ろばの子の背に揺られて都に入城されたイエス様が最初に行ったのは、エルサレムの神殿でした。おりしも過ぎ越しの祭りという三大祭のひとつが行なわれていたときでしたから、イスラエルの国中だけでなく、はるばる海を越え、砂漠を越えて創造主である真の神をあがめる人々が、エルサレム神殿に集っていました。
 ところが、この人出を金儲けのチャンスと考える連中がいたのです。当時の神殿で捧げる献金には、ローマ帝国の通貨は用いられず、神殿用のものがあったので両替をしたのですが、そのとき手数料で儲ける連中がいました。また、当時の礼拝では鳩や羊などのいけにえが捧げられましたので、鳩や羊をべらぼうな値段で売りつける連中もいたのです。そして、神殿の管理に当たる祭司長たちも、そのことを許し、売上の何割かを上納させていたのでした。
 ですから、はるばる海を越え砂漠を越えて、エルサレム神殿祈りをささげ、礼拝をしに来た人々は、静かに祈ることなどできませんでした。喧騒の中に心騒がせて祈りどころではなかったわけです。

 現世利益の欲求満足のために人間が工夫した宗教施設なら、祭りが金儲けの手段となったとしても、不思議はないでしょう。しかし、まことの聖なる神を礼拝するための神殿が、強盗の巣になるとはなんという情けないことか、と主イエスは憤られたのです。
 「天の父が『わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる』と聖書に啓示されているのに、おまえたちは、それを強盗の巣にしたのか!」と叫び、細縄でむちをつくって両替人を追い出し、腰掛けや台を蹴り倒してしまわれたのです。ものすごい剣幕です。聖なる神の御名を金儲けの手段にするような連中に、あのいつもは優しい主イエスが鉄槌をくだされたのでした。
 食するひまも忘れて、しいたげられた人を訪ね、友なき者の友となられた主イエスは、たいへんやさしいお方でした。しかし、主イエスは単に親切な人間ではありません。この激しい怒りに、聖なる神の御子の姿を見ることができます。
(通信小海109号 2002年10月より)