苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

たとえ省益を手に入れても

 このほど政府文部科学省は福島の子どもたちに許される年間被ばく線量の限度としての暫定基準値を、20ミリシーベルトから1ミリシーベルトに引き下げることにした。20ミリシーベルトは福島の親たちが文部科学省に来て、撤回を求め続けていたものである。1ミリシーベルトというのは、もともとのこの国における一般人の年間被曝線量の限度であり、20ミリシーベルトというのは放射線技師とか原発作業員などといった放射線管理区域での仕事に携わる特殊な人々の年間被ばく線量の限度であったのに、福島第一原発の事故が起きたとたんに政府は一般人の限度を20ミリシーベルトに引き上げたのだった。しかも、子どもの場合は、大人よりも数倍放射能の影響を受けやすいのである。福島のお父さん、お母さんたちがその暫定基準値の撤回を求めたのはあたりまえである。
 年間被ばく線量20ミリシーベルトというのはどういう数字かといえば、武田邦彦氏の表現でいえば、一年間に400回胸のレントゲンを受けるというとんでもない数字である。登校日数が約200回とすれば、登校するたびに2回胸のレントゲンを受けなければならないというのである。しかも、これは外部線量の話であって、食材の基準が別に年間20ミリシーベルトだから、合計40ミリシーベルトになり、これでは胸のレントゲンを毎日4回受けなさいというとんでもない話なのである。
 文部科学省はなんで突然20ミリシーベルトという基準に引き上げたのか。「そうしなければ福島県では、学校を続けられないからだ。」と文科省官僚がもらしたと報道されていた。親は子どものいのちを危険にさらしてまで、算数や国語を習わせたいとは思わないし、そんな勉強はドリルでも買ってくれば家でもできるのだ。親御さんたちの考えがまともであって、文科省は異常である。しかも、文科省はこの20ミリシーベルト基準を盾にとって、学校の除染に乗り出そうともしなかった。彼らの理屈では、建前上、20ミリシーベルトまで大丈夫といった以上は、除染をしたら自己矛盾することになるからである。無茶を言ったら、その無茶を維持するためにさらに無茶を言い通さねばならないという状態に陥っていたのである。
 このたびのことではっきりとわかったことは、親や現場の教員たちとちがって、文部科学省は一人一人のこどものいのちや幸福には関心がなく、彼らの関心はただ文科省の組織が維持されることだけなのだという事実である。
 昨年夏、その前年まで霞ヶ関法務省にいた知り合いが話していたのだが、官僚組織というのは自分の省庁の予算をいかにふやすか、なわばりを広げるかにしか関心がないのだそうである。そういう批判は前々から何度も聞いてはいたが、親戚や友人にそれなりに良心的な生き方をしている官僚がいたので、誇張された話だろうと思っていた。しかし、つい前年までキャリア官僚であった人が、「実際に、そうなんですよ」と実例をあげて生々しい話をするのを聞いて暗然としてしまった。彼は国民のためになる仕事だと考えて、その仕事について10年間やってきたのだが、ひたすら国民の利益より省庁の利益のために仕事をさせられる経験をして、こんなことのために自分の人生をかけられないと考えて、職を転じたのだった。
 入省するときには、この国をどのようにかしようという志をもって入ってきた若者たちが、やがて、そういう省や庁のなわばり拡張と予算拡大のためにのみ仕事をするようになってしまうのを見れば、これは個人個人の資質の問題というより、むしろシステムの問題なのだと考えるべきかもしれない。
 原発事故にしても、経済産業省のなかに原子力安全・保安院があったことに原因がある。経済産業省の官僚たちは、その省の利益拡大のためにのみ仕事をしているのだから、「その原発は危険だから止めなさい」という判断をするわけがなかったのだ。おとといのニュースでは、もう2008年には福島第一原発に10メートルの津波が来るという試算が出されて報告されたというが、コストを嫌った東電も原子力安全保安院も無視したという。もし、その報告にしたがって非常用電源施設を津波の届かないところに移動しておけば、これほどの大事故にはならずに済んだのである。さらに今回の事故の4日前にも同様の報告があったが、これも無視したという。「想定外」というのはウソだったのである。原発を止めなければならない、原発にコストがかかると省益に反する。省益に反することを決めた保安院官僚は出世させないということが、今日までずーっと続いてきているのである。このほど原発をチェックする組織は経済産業省から離れて、環境庁に行くとのことであるが、「原発をチェックして止めた」ということが手柄になり、出世の糧になるような仕組みにする必要がある。だが国策として原発を推進しているかぎり、なかなかそうは行くまい。
 そういえば、検察官僚も同じである。厚生労働省の女性官僚が検挙されたけれど、前田という検察官が証拠改ざんをしていたという事件があったが、あのとき上司にあたる検事が「悪いことは決してしていない。組織のためにやったことだ。」とインタビューに答えていた。検察官にとっての善悪の基準は法律だと思っていたが、そうではないらしい。検察官にとっては、善とは検察組織の益になることを意味し、悪とは検察組織に不利益なことを意味するのだ。呆れた話だ。
 文科省経産省、検察だけでなく、官僚機構そのものについて、適切な法改正をして抜本的な改革をしなければ、レトリックでなく現実にこの国は滅びてしまう。いや今、現に滅びつつある。このたびの原発事故は、官僚機構の腐敗が起こした事故だという側面が相当あるからだ。だが、その法を作っているのが官僚たちなのだから、改革はとてもむずかしい。公務員制度改革を志す政治家はつぶされ、古賀茂明氏のように国民の益を考える奇特な官僚は干されてしまうのである。
 文科省に聞きたいのだが、学校を存続させることができても、子どもたちが死んでしまったら、その教育にはなんの益があるだろう。経産省に聞きたいのだが、原発存続路線を維持しても、この国を滅ぼしたら、いったいなんの益があるのだろう。すべての省庁に聞きたい。たとえ省益を手に入れても、国を滅ぼしたら、何の得があるのだろう。こんなことをつらつら考えていたら主イエスのことばを思い出した。
 「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」マルコ福音書8章36節

  Y君がくれたカナダのおみやげ