苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

さくらとムグンファ


     (八重のムグンファ無窮花、槿。次に咲く花の備えができています。)

 今、庭の三本の槿(ムクゲ)が咲いている。咲き続けている。二本は花芯まで白く、一本は八重のピンクの花をつける。槿は韓国ではムグンファと呼ばれて、国花である。ムグンファとは無窮花の韓国風の読みであり、まさにその名のごとくひと月も二月も次々に清楚な花をつけ続けて、尽きることがない。また、桔梗のように枯れてしまった花がそこに残ることなく、さっさと落ちてしまうので、木についている花はみな美しい。近寄ってみると、ひとつの花の首のところには次に開く花のつぼみが用意されていて、これが無窮の秘訣なのである。

 国花といえば、日本ではさくら。古文で「はな」といえば、桜を意味するほどにさくらは日本の花なのである。

  みわたせば はなももみじもなかりけり
    浦のとまやの 秋の夕暮れ

 と聞いて、まぶたの裏に思い描くのは、梅でも水仙でも菜の花でも山吹でもなく、さくらなのである。
 日本人はぱっと咲いて、ぱっと散ってしまうさくらを美しいと感じる。散りぎわの潔さ、はかなさに美を見る。そういう意味で菅首相は美しくないとされてしまう。私などは自分に欠けている粘り強さにすごみを感じるのであるが。
 韓国人は、いつまでも尽きることのないムグンファの永続性に美を感じるのであろう。美の条件に永続性を要求するのは韓国だけでなく、ギリシャでもオリエントでもそうであり、世界に一般的なことである。日本人がさくらの散り際を好み、ずっと続くものよりもはかないものに美を感じるというのは、独特なのだとしばしば指摘される。これは無常というものの見方と関係するのだろう。造っても造っても台風や地震や火災で木と紙でできた家を押し流されたり壊されたり焼かれたりしてきたという、自然条件とも関係しているのかもしれない。長明も、方丈記の冒頭に世の中にある人と棲家の移り変わりについて記している。
 筆者は、あまり着飾ったような花よりも、清楚な花を好むので、槿もさくらも同じように好ましい。きょう春の光のなかにいっせいに咲きほこり、明日にははらはらと散ってゆくさくらも、また、尽きることなく清楚な花をつけ続ける槿も好ましい。それぞれにそれぞれの美があって、甲乙つけがたい。
「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』」創世記1:11


  小海駅のさくら