苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パスカル紹介


 (散歩していて、「気のせいか、今年はオミナエシが目に付くわ」と家内がつぶやきました。)


 パスカルを読みたいという友人がいるので、少しばかり昔書いたものをここに二三回載せるつもりである。
 筆者は、高校生のころ「源氏物語でも研究しながら一生食べていければいいな」と、国文学者を志して、高校二年生頃からいろいろ日本の古典を読み漁り始めその道に進学したが、一回生の終わりに伝道者への召しを自覚したので、むしろ将来神学を学ぶ備えとしてヨーロッパの思想を学んでおきたいと考え直した。そうした学びの中で出会ったのがパスカルであり、結局、卒論はパスカルで書いた。「パスカルにおける『神なき人間の悲惨』」。200枚以上も書いて、指導教授に呆れられてしまった。当時は手書きだから、自分でも書き直すのも、見直すのもいやになってしまった。
 その後20年以上もたって、「ハーザー」から聖書的観点からの近現代思想について書くようにとの求めがあって、パスカルについて書いたことがあった。ここに載せるのはその原稿であり、今は教会のHPの「牧師の書斎」聖書的観点による近代思想史メモにある。今回の概観はどこにでも書いてあるようなパスカルに関することである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 デカルトの一世代後にブレーズ・パスカル(1623−62)がいる。パスカルは、今の分類でいえば数学者・物理学者・文章家でありキリスト教思想家であった。しかも、彼はデカルト的合理主義が近現代になってもたらすことになる人間疎外を鋭く予見している。そこで、パスカルについては何度かに分けて、ていねいに扱いたい。今回はその生涯を概観する。

1.パスカルの業績

 まず、パスカルの短い生涯と業績を一息に紹介する文章として有名なシャトー・ブリアンのことばを引用しておこう。
 「十二才にして棒と輪とで数学をつくりだし、十六才にして古代以来現れた最も優れた円錐曲線論を書き、十九才にして悟性の中にでき上がっている一つの学問を機械に還元し、二十三才にして大気の重さに関するもろもろの現象を明らかにして古代自然学の大きな誤謬の一つを打破し、ほかの人ならばやっと一人前になり始める年頃に、人間の科学の全体をきわめつくしてそのむなしきを悟り、思いを宗教に向けた。この時以来三十九才をもって死ぬまで、つねに病弱でありながら、後にボシュエやラシーヌの語った国語を定め、最も強い推理と最も完全な諧謔との模範を示し、最後に、病気の短い絶え間に、気晴らしのために幾何学の最高の問題の一つを解き、また人間と神とに関する思想を紙に書きつけた。このおそるべき天才の名はブレーズ・パスカルであった。」
 「十二才にして棒と輪とで数学をつくりだし」というのは、彼が幼い日に自力でユークリッド幾何学の体系を導き出そうとしたことを指している。父エチエンヌは息子の教育プランとして、まず古典語を学ばせるため、当面は幾何学を禁じていた。しかし、ブレーズは幾何学に関心を持ち、父からそれが図形の性質に関する学問であると聞きつけた。このヒントだけから十二歳の少年は、父に隠れて自分なりに幾何学の研究をし、直線の代わりに棒、円の代わりに輪という用語を使って、ユークリッド幾何学第三十二命題まで到達してしまったのである。父はわが子の天才にようやく気づき、幾何学の勉強を許す。たちまち彼の幾何学の才は開花し、十六才で「円錐曲線試論」で貴族のサロンにデビューした。当時サロンは社交の場であり、高級な趣味としての科学研究の場であった。
 十九才の「機械」とは彼が発明した史上初の計算機のことである。
 二十三才になると、真空が実在することを実験的方法をもって証明し、アリストテレス以来の「自然は真空を嫌悪する」という誤謬を打破した。彼の気圧に関する研究成果の偉大さを記念して、私たちはヘクトパスカルという単位を用いている。

2.パスカルの信仰

 パスカルは生まれながらのカトリックであったが、一六四六年に「最初の回心」を経験する。この年の一月父の大腿骨脱臼治療のために、兄弟の外科医デシャン兄弟を三か月自宅に泊めたが、彼らはポール・ロワイヤル運動の流れをくむ熱心な信者であった。その影響でブレーズがまず新しい信仰に目覚め、ついで彼の伝道で妹ジャクリーヌも改心し、父、姉夫婦をもこの新しい信仰に導かれた。ポール・ロワイヤル運動とはジャンセニスムと呼ばれるアウグスティヌス主義の復興運動であり、内容はプロテスタント信仰に近いものであった。
 五一年父エチエンヌが死ぬと、五二年最愛の妹ジャクリーヌはポール・ロワイヤル修道院に入ってしまう。父の死後、パスカルは計算機の特許を取ったり、スウェーデンのクリスチナ女王に献呈したり、数学者、物理学者発明家としてエギヨン侯爵夫人のサロンで「アルキメデスの再来」と賞賛されたり、フェルマとともに確率論を始めたりする。パスカルはサロンの寵児であった。この時代は研究者によって「世俗時代」と呼ばれる。
 しかし、ひとたび味わった熱烈なキリスト信仰はやがて、彼の内によみがえる。一六五四年九月ころからの煩悶の様子が、ジャクリーヌが姉ジルベルトに宛てた手紙の中に見える。そして、「決定的回心」が訪れる。その体験を記した「メモリアル(覚え書き)」はパスカル死後、召し使いが彼の胴衣の裏に厚くなっているところがあるのを見つけて、不思議に思ってほどいた所、故人自筆の羊皮紙と紙片各一枚が折りたたまれて入っていたものである。羊皮紙は紙片の清書であった。彼が自分の決定的回心の体験を常に思い起こすために縫いこんであったものである。

メモリアル(覚え書き)
キリスト紀元一六五四年 十一月二三日月曜日、・・・夜十時半頃から十二時頃まで。
   火
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。  
確かだ確かだ、心のふれあい、喜び、平和、  
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」 「あなたの神は、わたしの神です。」  この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、見いだすことができない。  
人間のたましいの偉大さ。
「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
 しかし、わたしはあなたを知りました。」
よろこび、よろこび、よろこびの涙。  
わたしは神から離れていた−−、
「生ける水の源であるわたしを捨てた」
「我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
「どうか、永遠に神から離れることのありませんように−−、
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります。」
イエス・キリスト
イエス・キリスト
わたしは、かれから離れていた。彼を避け、彼を捨て、彼を十字架につけたのだ。  
ああ、もうどんなことがあっても、彼から離れることがありませんように。  
彼は福音書に教えられた道によらなければ、とどまることを望まない。  
何もかも捨て去り、心はおだやか。・・・・  
イエス・キリスト、そしてわたしの指導者に心から服従する。  
地上の試練の一日に対して、永遠の喜びが待っている。
「わたしはあなたの御言葉を忘れません。」
 アーメン

 以後、パスカルはポール・ロワイヤル修道院で信徒として修業し、その信仰の弁明者となる。当時、ポール・ロワイヤル修道院はジェズイット会(イエズス会)からプロテスタント的異端の汚名を着せられ、解散の危機に瀕していた。パスカルは『プロヴァンシャル』と呼ばれる一連の公開書簡をもって、ジェズイットの批判に答えたが、その文体が評判となり、その後のボシュエ、ラシーヌらの用いた近代フランス語文章の模範となったのである。
 また、パスカルは弁証のため神学を研究するうち、この方面にも天才を発揮し、返す刀で当時の自由思想家たちへの「キリスト教弁証論」を企て「人間と神とに関する思想」を紙に書きつけた。惜しくも「弁証論」としてまとめる前に、パスカルは三十九歳にして世を去ってしまった。こうして遺された断想集が有名な『パンセ』である。『パンセ』は、「幾何学の精神」による頭に入るだけの弁証でなく、「繊細の精神」による心(coeur)にまで届くことを意図したキリスト教の弁証なのである。