苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

平和を壊すもの

 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ人への手紙2:3,4)

 ピリピの教会は熱心で忠実な教会でしたが、パウロにはひとつの心配がありました。それはピリピ教会のうちに反目があり、一致が壊れそうであるということでした。これに対してパウロは、争いの原因はあなたがたの「自己中心と虚栄だ」と率直に述べています。8月15日ですから、戦争と平和ということを考えておきましょう。

 国と国の間にはなぜ争いがあるのでしょうか。複雑な要因が絡んでいるようであっても、つまるところ、やはり、それは「自己中心と虚栄」のせいではないでしょうか。戦前、アジアでは、イギリスはインドとビルマとマレーを植民地とし、フランスはインドシナを植民地とし、オランダは今日インドネシアと呼ばれる島々を植民地とし、アメリカはスペインから奪い取ったフィリピンを植民地として、人々を弾圧し搾取していました。当時の日本の戦争を正当化する基督新聞に「アングロサクソンの暴虐は地に満ちている」と書いてあるのは事実でした。
 では、わが国はどうだったか。明治に開国した日本は、日清戦争日露戦争で奇跡的な勝利を得て、「わが国は神国」であるとまさに自己中心と虚栄にのぼせ上がっていました。朝鮮半島を我が物とし、満州国という傀儡政権を作り、欧米列強と同じく暴虐を働きました。しかも、「大東亜共栄圏構想」をぶちあげて、アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、日本・満州・中国を中心とする国家連合を実現させる理想を宣伝しました。けれども、実際に、戦争を始めると大東亜共栄圏を構成していたフィリピン第二共和国ベトナム帝国、ラオス王国ビルマ国カンボジア王国満州国の政府と中華民国は従属国にすぎず、実質的には日本による植民地支配にすぎませんでした。
 日本は、先の支配者を追い出した国々の人々に対して、日本語による皇民化教育や神社造営・宮城遥拝の強要し、石油・農作物・労働力を収奪し、結局、どの国にも独立を与えないまま敗戦を迎えました。敗戦後、結果的に、これらの国々は旧宗主国から独立できたことをもって、日本はアジアを欧米から解放したのだと主張するあまりにも厚顔無恥な人々もいますが。そういう人は、皇軍にひどい目に遭わされたアジア諸国の人々のいる道端で公言してみればよいと思います。自分の誤りを身をもって知ることになるでしょう。
 先の太平洋戦争の根本原因は、欧米と日本という帝国主義諸国の自己中心と虚栄という罪にほかなりません。欧米列強も日本も、神の前に悔い改めて謙遜になる必要があります。

 それにしても、帝国主義的支配によってアジアの国々の民を苦しめた日本を除く欧米列強が、ことごとく「キリスト教国」であったのは、なんとしたことでしょうか?聖書から二つのことをメモしておきたいと思います。
 第一は、聖書的な観点からすれば「キリスト教国」というものは、ありえないということです。旧約時代は神の民がイスラエルの民に限定されていましたから、イスラエルという国家は特別な意味で「祭司の王国、聖なる国民」でしたが(出エジプト19:6)、新約時代はその神の民は民族・言語・国境を超えて広がることになりました。したがって、ある特定の国が神の特別な選びにある「キリスト教国」であるということはありえなくなったのです。もちろんいわゆる「キリスト教国」を自称している国や、自称していなくてもそのように見られている国はありましたし、今日でもありますが、それは聖書的な基準からいえば、勝手な思い込みにすぎません。
 思い込みではありますが、「キリスト教国」という誤った自負が欧米列強の国を独善的にさせてしまったという一面があることは、残念ながら認めざるを得ないと思います。神の特選の民だという自負が、自分の暴虐な振る舞いを正当化することになったということです。典型的な例は米国のマニフェスト・デスティニー(明白なる運命)です。これはアメリカの西部開拓とそれにともなう先住民虐殺を神の意思による当然の運命という考え方でした。19世紀末以来のハワイ、フィリピンなど海外領土膨張政策の弁護にも利用された考え方であり、今日まで続いているといえましょう。マニフェスト・デスティニーなるものに聖書的根拠は皆無です。にもかかわらず、神の名において戦争をしてきたのはなんという残念で罪深いことでしょうか。

 第二。国家のことと個人レベルのことを同じように考えることは素朴すぎるという批判もありましょうが、十字架にかかるまでへりくだられたキリストを抜きに神を知っているだけでは人も国も傲慢になるという点で通じるところがあると思います。教会に通い始めた19歳の頃の自らを振り返れば、「真理を知った」という思いが自分を増長させて自己中心と虚栄に膨れ上がったことがあったことを恥ずかしながら思い出します。生きる目的がわからず、二年あまり闇の中で苦悶してきた青年にとって、「人の主な目的は神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである」という信仰告白はまぶしいほどに輝いていました。ついに真理をつかんだと思った私は、なんだか自分がものすごく偉くなったような気分になりました。「生きる目的もなく、あったとしても金儲けが立身出世などといったつまらぬことを目的としている連中に比べて、自分はなんと高貴な人間であろう」と思い上がっていたのです。まさに自己中心と虚栄のきわみでした。そうした時期を数ヶ月過ごした後、自分は神の栄光のために生きてはおらず、ただ高慢な自己陶酔の中にいたのだと悟らされて、この私の罪のためにこそキリストは十字架にかかってくださったのだと知って、悔い改めたのでした。
 天の栄光の御座を捨てて、私たちの罪のために十字架にかかってくださった主イエスを抜きにした「キリスト教」は、人をとてつもなく傲慢にするだけなのです。
 先年、北海道にご奉仕にうかがったとき、蔡宣教師という方にお目にかかりました。先生はこうおっしゃいました。「かつて欧米の宣教師たちはcrusade spirit(十字軍精神)でもって、異教徒のところに出かけて、彼らを回心させることを目指したものです。けれども、今日の宣教学では、宣教師に必要なのはcrusade spiritではなく、crucified spirit(十字架にはりつけにされた精神)であると教えられているのです。」と。父の御旨にしたがって、徹底的にへりくだって、実に十字架の死にまでしたがわれた御子イエスの精神をもってこそ、まだキリストの福音を伝えていくことができるのだということです。なるほど、と思って以来、このことばが脳裏から離れなくなりました。
 平和を壊すもの、それは自己中心と虚栄であり、平和をつくるものとはキリストが人となり十字架の死にまでも従われたことに見える徹底的な謙遜なのです。