苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

父の愛・・・・暗闇と沈黙

      
 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
・・・・・・
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

               マルコ15:33−46抜粋

 御子イエス・キリストの誕生はクリスマスとして世界中の人々が祝っています。けれども、御子の最期のありさまは十字架刑というあまりにも残酷で悲惨なものでした。しかし、そこには神の愛が表されていたのです。


十字架の前半と後半


 イエス様がローマ総督ピラトの不当な裁判で死刑の判決を受け、ドロローサの道を十字架を運んでゴルゴタの丘に到着され、十字架に磔にされたのが、マルコ15:25によると午前9時のことでした。そして、イエス様が「父よ、わが霊を御手におゆだねします。」と言って果てられたのが、午後3時です。ですから、主は6時間にわたって十字架上で苦しみを味わわれたのだということになります。
 ところが、正午までの三時間と、正午からあとの三時間とで、ずいぶんイエス様のご様子も周囲の様子もちがっていることに気づきます。前半の三時間、人々はイエス様に向かって「おまえが神の子なら今すぐそこから降りて来い」などと罵りました。またイエス様は、そんな彼らのために「父よ、彼らをおゆるしください。」ととりなし祈られましたし、隣の十字架にかけられた犯罪人に個人伝道をして、彼に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と救いの約束をお与えになりました。また、ヨハネ福音書によれば、主イエスは母マリヤを弟子のヨハネに託しています。「ここにあなたの息子がいます。」「ここにあなたの母がいます。」とおっしゃって。こうしてみると、前半の三時間、主イエスは十字架の激痛のなかにありながらも、いくらかの余裕をもっていらしたことに気づくでしょう。余裕をもって愛の配慮をなさっているのです。

 ところが、正午になるとにわかに太陽が光を失い、それから三時間にわたって、あたりは真っ暗になりました。その三時間、主イエスはひとことも発してはおられません。暗闇の中、イエス様は沈黙のうちに苦しみもだえておられました。
 そして、午後三時になると、主イエスは「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ!」と絶叫されました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。ついで主は「わたしは渇く」、「完了した」とおっしゃって。最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」とおっしゃって、息を引き取られたのです。
 じりじり照り付ける太陽の下、前半は苦痛の中でも余裕をある程度お持ちになって、他の人々へのためのとりなしと愛の配慮をなさっていた主イエスは、後半になると打って変わって沈黙され、最後に絶望の声を上げて後、父に霊をゆだねられたのでした。いったい、後半の三時間の暗闇と沈黙のなかで何が行われていたのでしょうか。


暗闇は歴史の事実だった


 ある人々は、イエスが十字架にかかられたときに全地をおおった暗闇は、福音書記者による文学的脚色であると片付けてしまうようです。しかし、イエス様と同時代に小アジア半島のビテニヤ地方に生きていた年代記記者フレゴンは、次のように書き残しているのです。

「第202回オリンピック大会の第4年目(紀元後32−33年)、日蝕が起こった。それは、古今未曾有の大日蝕であった。昼の6時(正午)、星が見えるほどの夜となった。また、ビテニヤに起こった地震で、ニケヤの多くの家屋が倒壊した。」

 イエス様が十字架についたとき、大地を覆った暗闇は歴史のなかで事実起こった出来事だったのです。
 しかも、フレゴンが理解するように、この日、太陽が光を失ったのは、いわゆる自然現象としての日蝕ではなかったようです。イエス様が十字架にかかられたのは過越祭のときでしたが、過越祭は春分の日のあとにやってくる満月の折に開催されることになっていました。満月のときには、日蝕は起こりえないのです。
(太陽と地球の間に月がきて、月の影に地球が入ると日蝕が起こる。日蝕が起こるのは、太陽と月と地球という順番で一直線に並ぶとき。このとき、月を背後から見るかたちであるから、日食は新月の時にしか起こりえない。)
 しかし、事実、その起こりえないはずの「太陽が光を失った」3時間があったのです。天文学的な日蝕は数分のことです。太陽は光を失い、正午に星が見えました。この出来事は神が起こされた奇跡にほかなりません。


暗闇の意味


 奇跡は聖書では「しるし」と呼ばれます。「しるし」はその意味を正しく読み取る必要があります。讃美歌に「咎なき神の子、咎を負えば、照る日も隠れて、闇となりぬ」とあります。イメージとしては神の御子が咎を負われたので、太陽も喪に服したということでしょうか。またある人は、ご自身の子を十字架にかけて殺してしまった人類に対する神の怒りの表れというふうに解するかもしれません。
では、聖書はなんといっているのでしょうか。聖書の啓示において、神は「暗闇」「闇」「太陽が光を失う」という表象を、どのような意味で用いてこられたでしょうか。

ヨエル2:31
「【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、
 太陽はやみとなり、月は血に変わる。」


ゼパニヤ1:14,15
「【主】の大いなる日は近い。
 それは近く、非常に早く来る。
 聞け。【主】の日を。勇士も激しく叫ぶ。
 その日は激しい怒りの日、
 苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、
 やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、」

 これら預言者たちのことばを読めば、神が「暗闇」というしるしを用いて何を表していらっしゃるかということがわかります。それは、終末的な審判において罪人に下される神の聖なる御怒りです。神は聖なるお方であり、正義の審判者です。神は忍耐強く哀れみ深いお方であり、私たちの悔い改めを待っていてくださいますが、最後には歴史に決着をつけられるのです。その日には、隠されていたすべての罪が明るみにだされて、公正な審判がくだされることになります。
 かつてエジプトにおいてイスラエルの民が、奴隷とされ、増えすぎたために幼い男児たちを殺され苦しんでいたとき、神はアブラハム契約に基づいて彼らを救い出そうとなさって、モーセをエジプトの王パロのもとに遣わされました。しかし、パロは取り合おうとしませんでしたので、神はエジプトの上に十の災いをくだされました。第一の災いは血、第二の災いは蛙・・・・そして第九番目の災いはエジプト人たちを覆う暗闇でした。そして、最後の第十番目の災いは、エジプトのすべての初子が撃たれるという恐るべき災いでした。このとき、神は子羊の血を流し、その血を門柱とかもいとに塗っておけば、死の御使いはその門の前を過ぎ越すという約束をお与えになりましたので、神を恐れる人々はそのように実行したのです。果たして、死の使いが訪れたとき、子羊の血潮によって守られた家々の初子のいのちは取り上げられなかったのです。
 こうした故事からわかることは、二千年前、あのゴルゴタで主イエスが十字架にかけられたとき、イエスを覆った暗闇は、父なる神から真の子羊であるイエスの上に下されたゲヘナの刑罰の表象であったということです。「木にかけられた者は呪われたものである」と書かれている通りです。あの暗闇の三時間には、本来、私たちが受けるべき永遠のゲヘナの呪いが詰め込まれていたのです。
 御子は闇の中で、天を仰いで父の御顔を捜し求めました。御子はこの世界が造られる前から、どんなときでも御父との親しい愛の交わりのうちにおられました(ヨハネ17:5,24)。父の許を離れて、この世に降られて後も、その伝道生活のなかで御子はしばしば荒野に退いて父との交わりのうちに、平安と喜びと力とを得ておられました。あるときには、天から「これはわたしの愛する子である。わたしはこの子を喜ぶ。」というやさしく力強い父の声さえも響いたのです。
 しかし、呪いの暗闇が全地を覆ったとき、御子がどんなに父の御顔の光を求めても、何も見ることはできませんでした。御子は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれたとき、天の父は耳を覆って、最愛の御子から顔を背けられたのでした。


父の心


 私たち罪ある者を救うために、わが子を手にかけなければならなかった天の父はどのような思いでいらしたのでしょうか。厳格な審判者として、冷酷なさばきをくだされたのでしょうか。
 父の心を理解するために、ひとつの譬えが助けになるでしょう。ある人が一匹の小羊をかわいがっています。けれど、ユダヤではニサンの月の10日になると、その傷のない雄の小羊を家の中に入れて14日までよく見守って世話をするのです。しかし、14日目の夕暮れになると、彼はこのかわいい小羊をほふってその血潮をかもいと門柱とに塗らねばなりません。罪の呪いが過ぎ去るための過ぎ越しの小羊です。そのとき、いとおしんできた小羊のいのちを取らねばならない人の心。天の父が、最愛の御子を十字架上で人類の罪をつぐなうために見捨てなければならなかったとき、父の胸は張り裂けてしまいました。
 なぜ天の父は、最愛のひとり子を呪いの暗闇のなかにお見捨てになったのですか。それはあなたを永遠のゲヘナの闇からつかみ出し、救い出すためにほかなりません。なぜそこまでして、と思いますか? 神は愛であり、神はあなたを愛しておられるからです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」1ヨハネ4:10


結び
 罪から来る報酬は死です。その永遠の死の呪いを、御子は進んでその身に引き受けてくださいました。罪人たちを救うために罪を贖うという父のみこころを御子は遂行なさったのです。御子は天の父を愛しておられ、私たちのことを愛していてくださるからです。天の父は、最愛の御子を十字架の呪いに渡してまで、私たちを救おうとされました。
 この神の愛を拒んではなりません。また、あの十字架に現された神の愛を疑ってはなりません。地上にあっては、私たちはそれぞれに、時には、さまざまなつらい出来事があり、理不尽な目にあわねばならぬこともありましょう。しかし、それだからといって、神の愛を疑ってはなりません。神の愛が見えなくなりそうなとき、十字架にかかられた御子イエスを見上げて、目を離さないことです。