苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

でしかない屋

 「秩序−−−自然は、その真理の一つ一つがおのおのそれ自体で真理であるようにした。わたしたちは、人工的に、それらの真理の一部を、他のものの中へ押し込めようとしている。だが、これは自然にそむくことである。ものそれぞれに、自分の場所があるのだ。」B21,L45

 以前、慶応大学の有名な渡辺格教授がこんなことを書いていた。「思考というものは、結局は脳内の電気信号でしかないわけでありまして、愛だとか美だとか善だとかいう観念も、実は一種の電気信号でしかないのであります。愛とか美とか善というのは実在しないのです。」
 D.M.マッカイというイギリスの大脳生理学の学者がこういう類の学者たちを「でしかない屋」と呼んでいる。彼らは何かを説明するにあたって、それを物理・化学的な次元から説明して決まり文句のように「〜でしかない」「〜にすぎない」というからである。彼らは物理学がすべてのことを説明しつくしうる学問であるかのように妄想を抱いているのである。物理学者だけではなく、この手の「でしかない」ということばは人々の口からしばしば発せられる。いわく「宗教などというものは社会を維持していくための虚構の装置にすぎない」いわく「美というようなことは、単に好みの違いでしかない。」いわく「母親の子どもへの愛などというものは、生物種の保存のための本能でしかない。」いわく「生物の行動というものはその生物内の化学変化にすぎない」いわく「すべての化学変化は物理的次元から説明できる」などなど。「でしかない屋」は何をしているのかといえば、より高度で複雑な次元の事がらをより次元の低い側面だけを説明しているのある。
 マッカイはこんな例を挙げている。ここに「スカッとさわやか。コカコーラ」というたくさんの電気仕掛けの看板があるとする。もし電気屋がこの看板について、「『スカッとさわやか、コカコーラ』というのはただ120個の赤ランプと35個の白ランプが点滅しているのでしかない。『スカッとわわやかコカコーラ』などというサインは実在しない。」という。たしかに、その看板には物理的次元でいえば何百個の電気信号からなっている、しかし、言語表現という次元でいえば「スカッとさわやか〜」という意味があり、経済的次元でいえばその看板の宣伝効果は制作維持費にペイするかどうかというような意味がある。看板一つにもいろいろな次元での意味があるわけで、一つの次元だけとりあげて「〜でしかない」などというのは愚かなことである。
 パスカルは科学というものが「でしかない屋」のあやまちに陥る危険があることを見抜いていた。「自然は、その真理の一つ一つがおのおのそれ自体で真理であるようにした。わたしたちは、人工的に、それらの真理の一部を、他のものの中へ押し込めようとしている。だが、これは自然にそむくことである。ものそれぞれに、自分の場所があるのだ。」(B21,L45)愛には愛の次元があり、精神には精神の次元があり、肉体には肉体の次元がある。宗教的次元には宗教的次元における固有の真理があり、道徳的次元には道徳的次元での真理があり、美的次元には美的次元での固有の真理があり、経済的次元には経済的次元での真理があり、生物的次元には生物的次元としての真理があり、化学的次元には化学的次元での真理があり、物理的次元には物理的次元での真理がある。それぞれの次元はそれぞれの固有の真理があることをわきまえるべきである。
 「圧制は、自己の秩序を超えて全般を支配しようとするところに存する。強い者、美しい者、分別ある者、敬虔な者は、それぞれ異なる分野を持ち、各自そのなかを支配するが、他の分野には及ばない。ところが時として彼らはぶつかり、強い者と美しい者とのいずれが他を支配するかで、相争う。愚かなことである。なぜなら、彼らの支配権は異なる類に属するからである。」(松波訳L58,B332)

 イスカリオテ・ユダは、ベタニヤのマリヤが主イエスに高価なナルド油を惜し気もなく注いだ時、即座に非難した「そりゃ売れば300デナリにもなるじゃないか!」ユダには香油に託された愛が見えなかった。財布持ちのユダにとっては、ナルドの香油は300デナリという金額でしかなかった。何でもお金に還元してしまうという習性が身についていたからである。現代人を支配しているもう一つの「帝国主義」は「経済効率帝国主義」ではないだろうか。教会もキリスト者も注意注意。